摂食障害の娘と共に 365日

パールじゅんこ

2013年06月03日 05:47



庭の飛鳥乙女(ミニバラ)が満開になった。
小さな蜂が 朝日の中で甲斐甲斐しく働いた。





出勤前の私は ああでもないこうでもないと
カメラの向きを変え 飛鳥乙女を見つめシャッターをおした。


「 おか~~さ~~ん  まーだ 写しよると?
     遅刻するよ~~~。 」

  散歩中のみいが垣根の下から手を振った。


一年前の出来事・・
病に伏していたみいの姿がはるか昔のように感じられる。

終わらせよう  
   前に向かって歩き出そう

そう考えて
タイトル 「 摂食障害の娘と共に 」を外した。


今 
摂食障害のご家族を抱え苦しんでいらっしゃる方に
みいの回復ぶりが
何らかの光りを与えることが出来るなら
無能な母親の私の取り組みが
何らかのヒントになるなら・・・


そう考え、再び少しだけ 振り返ってみる事にした。


  

 

  2010年  食べようとしなくなったみい。




 私は・・・・  仕事に没頭していた。

成長した娘・・  
嫁いでいった娘たちにほっとして
長年勤めた小さな小さな企業で
私は朝から晩まで   
そして 転送電話による問い合わせを
早朝から夜中まで受け付け仕事に没頭していた。


結婚式直後から笑顔が消えた活発な次女みいからも
心を離してしまっていた。

隙間風の吹き始めたみいの心を支えてやることをせず
私は 日々の時間に追われていた。

じわりじわりと
脳を蝕い始めた心の病を抱えたみいを
置いてけぼりにしていた。

  2009年 秋~冬
  心臓が苦しい・・
  微熱が続く・・と訴え始めたみい。

  土曜日の午後 勤務中の私に電話が入る
  「 お母さん 心臓が苦しい・・」
  私は大急ぎで
  嫌がるみいを促して近くの総合病院に連れて行った。
  診察室に一緒に入ろうとする私に
  看護師の目の前でみいは私を罵り入室を拒んだ。
    
  顔色も蒼白で
  一目で普通ではないように見えるにもかかわらず
  「 お母さん 何にもないよ。」とみいは診察室から出てきた。
  みいに続いて診察室から出てきた医師の後姿に声をかけ呼びとめた。
  若い医師は言葉少なく
  「 何の異常もありません。
      トローチをだしておきましょう。
      少し のどが赤くなっています。」

  とそっけなく答え 足早に薄暗い廊下を去っていった。

  私は
  なすすべがなく 悲しみが心一杯充満した。
  この時点で医学の力を借りて
  みいの体を直したい一心で
  かすかな望みをかけて
  再びみいから罵られるとわかっていたが
  思い切って医師を呼びとめたが
  あまりのそっけなさに心が痛んだ。



  2010年 1月
  体の不調を訴えるみい。
  ・・・にもかかわらず診察を受けようとしない。
  私は結婚生活を送っていた娘の住居の玄関先で
  みいと大喧嘩をした。
  「 病院に行きなさい。治療を受けなさい!」
  「 うち どこも悪くない!
      なら・・ 診察を受けてお母さんを認めさせてやる!」

  「どこも 悪くなかったよ!
 
  近くの総合病院で診察を受けたものの
  軽く流すだけで結果を詳しく私に告げることは無かった。
  相変わらず私の同行を拒んだ。


  2011年4月 
  お昼過ぎ低血糖によりスーパーで倒れ
  床にかなりの量出血をした。
  我が家に帰っていたみいは
  夕方 意識不明になり
  佐世保市の労災病院へと救急車で運ばれる。

  私は安静にさせたかったので
  労災病院内科医に長期入院を頼み込んだが
  3日間の入院後
  さっさと自宅に帰ってしまった。
  

  2011年5月
  微熱~高熱を繰り返し始めた。
  近くの開業医で診察をうけ点滴を受けながらの生活を
  送り始めた。

  HAYATOの世話が出来なくなり
  全面的に我が家でみいを預かった。


  
  2011年6月
  私は長年の友人にみいの症状を告げた。
  そして
  友人の知り合いを通じて徳田先生を紹介された。
  「 すぐ 診察をします。
       どうにか説得をして連れてきなさい。」

  徳田先生のもとで働いていた看護師さんを通じて
  徳田先生からありがたい言葉を頂いた。


  みいはけんか腰で診察を受けた。
  私の同行は頑なに拒んだ。

  「 どうだった?ひどくなかった? 」と聞く私に
  「 お母さんの考えすぎよ・・」とそらした。
  そんなはずは無い! 
  私はみいの態度にいら立っていた。

  しかし その夜 直接私は徳田先生からの電話を頂いた。
  「 信じられない程肝臓が弱っています。
    すぐ 明日から入院させなさい。」
 と。


  徳田病院への入院において
  みいは 又 私と大喧嘩の末 承諾した。
  家族への心が通っていない婿は無関心だった。

   

   そして
   2011年7月 入退院が始まったのだった。
   
   みぃのBMIの数値はすでに
   突然死がやってくる11以下となってしまっていた。

 
   肝機能の低下を告がた医師は
   「この夏を越すのは無理でしょう」と告げた。
   みいは完全に 結婚生活は送れなくなった。


   それから
   徳田先生のもとで
   壮絶な入退院生活が始まった。

   
     ・・・・・

   2012年2月末 離婚 
   婿はみいとHAYATOのもとから去って行った。


   2012年  4月
   私はみいを亡くしてしまうという恐怖におびえた。
   
   
   
   

   だが
   記憶を失い 
   精神錯乱状態のみいの手は
   決して HAYATOを離すことは無かった。


      柔らかい 緑の風はみいの命をつないだ。

     

  2012年 5月末
  長い入院生活を終わらせ
  私は 母親としての直感で
  みいを 自宅に連れて戻った。

  主治医も主人も
  みいの自宅での生活は無理だろうと言った。

  みいは記憶を失っていた。
  みいは 感情のコントロールが出来なかった。
  みいの摂食障害は続いていた。
  みいの心は不安定だった。
  

  みいの体重は24~5kg 身長159cm

  私は信じた。
  大好きな我が家で みいは快復するはず・・・と。









  私は仕事を 辞めることも 休む事もしなかった。

  みいの望んだ
  自宅での生活が始まった。


  私の道しるべは
    「 放っておけ  放っておけば治る 」 と言う
  主人の言葉だった。