摂食障害の娘と共に 365日

パールじゅんこ

2013年06月05日 02:34


5月24日   19時43分

大きなお月様が東の空からゆっくりと登ってきた。



    暗くなるのを待てないHAYATOは
    元気よく玄関を飛び出して
    蛍狩りを楽しんだ。

   

   
  今年も たくさんのホタルの舞う季節がやってきた。
  HAYATOはたくさんのホタルを捕まえて
  家に入ってきた。
   

  ホタルはHAYATOと戯れたあと
  再び 元気に庭の闇の中に消えていった。




         

       真ん丸いお月様は
       全てをまあるく包み込んで
  
       夜がゆっくりと更けていった。



              

平成25年5月
ふっくらと 可愛らしいほたるぶくろは
元気に登校していくHAYATOを見送った。


 すっかり 元気を取り戻したみいは
 完璧にHAYATOの世話ができるようになった。
 ぴっかぴっかの一年生になったHAYATOを
 お友達の玄関先まで送るのが
 毎朝の日課になっている。


 静かな朝
 「 いってきま~~す。 」
 HAYATOの元気な声が響いた。


 新しい生活に踏み出したHAYATOを見送ったみいは
 晩白柚のかおりに包まれている庭先を
 長い時間散歩をしてから家にはいってくる。

     


                  


  一年という時間が流れた。

    静かに
      穏やかに
        楽しく

  私は息を凝らして 慎重に時間を積み重ねた。


平成24年4月
  尿路結石の手術後 意識不明に陥り
  生死の狭間をさまよったみいは
    高次脳機能障害
    摂食障害
    言語障害
  様々な大きな障害を残したまま
平成24年5月23日 退院してきた。


  病院でのみいは
  感情のコントロールが出来ず
  言葉にならない声を張り上げて
  看護師に当たり散らしていた。

  見舞った私達家族にも罵声を浴びさせた。
  「 もう 二度と見舞うものか!」
  腹を立てて病院を後にしたときもあった。

  情けなくて
  涙をぬぐいながら病室を出たことも度々あった。

  退院を間直に控えたころ
  主治医は言いにくそうに
  「 言葉は非常に悪いんですが・・・
    このまま・・・  だまして・・・
    精神病院に転院された方が・・・・
    ご自宅での生活は無理のように思われます。」

  言葉をつまらせながら私に告げた。

  てのひら返すように突然怒り出すみいに
  内科病棟の看護師さんたちは手を焼いているようだった。

  主人も同意した。

  「 もし 訳がわからんで 台所にたって
    火事でもおこしたら大変だ。 
    一人で家に居るのは危ないぞ。」


私は・・・
病院でのストレスがみいを狂わせていると感じていた。

私は・・・
みいが自宅に帰りたがっていることは十分察していた。

私は・・・
大丈夫だと思った。
なんの根拠もないが 大丈夫だと思えた。
みいの居場所は自宅だと思えた。

しかし
この先みいにどんな人生が待っているのか
不安で押しつぶされそうになっていたのも事実であった。


ちょうど一年前 みいは我が家に帰ってきた。

私はみいを一人残して
毎朝 勤めに出た。

「 ゆっくりしときなさいね。 」と手を振って
午前8時
主人とHAYATOと共に車に乗り込み
毎朝 出かけたのだった。

みいは
私達を見送ったあと
長い朝の時間を家の周りを散歩していた。
独りぼっちで 自由に 気ままに 過ごしていた。


みいはじーと立ち止まり
緑の木々を
たくさんの清楚な花を眺めて過ごしていた。

又 あるときは足早に家の周りを歩いていた。





退院したばかりのみいは 
常に「 ふんふん・・  ふんふん・・ 」
  胸の奥から ?  
    のどの奥から ?
       頭の中から ?
一定のリズムで不思議な声(?)を発していた。


目が覚めたと同時に2階で「 ふんふん・・ ふんふん・・・」
洗濯物を干しながら「 ふんふん・・・ 」
散歩をしながら「 ふんふん・・・ 」
トイレの中から「 ふんふん・・・ 」
脳がおかしい・・  と感じずにおれなかった。


「 又 ふんふん言ってるよ。」と注意すると
 
「 そうお?  聞こえよると?
 
  頭の中に 虫が住んでるんかなあ 」

かたことのようなしゃべり方でみいは冗談を言った。

言語障害は長い時間をかけて
ゆっくりと回復していった。  が
一年経った今でも 少し話しづらそうである。


この「 ふんふん・・  ふんふん・・・ 」
今年の2月頃まで続き
今では全く言わなくなった。

退院して 間もなくみいは主婦表を熟し始めた。

私は家計財布をみいに渡した。

みいは
規則正しく きっちりと時間どうりに行動し
買い物や 洗濯 掃除 夕食の準備が出来始めた。
しかし
同じ献立の繰り返しが続いた。
私は主人と顔を見合わせては何も言わず 
晩御飯の席に着き
HAYATOと共にテレビのお笑い番組を楽しみながら
食事を終わらせた。
「 美味しかったよ 」の言葉で締めくくる日を続けた。
台所には同じ調味料ばかりがあふれだした。
しかし敢えて そのことには触れなかった。

退院してから数日後
私はあれ? と気付いたことがあった。
そういえば みいは洋服を着替えていない・・!
私は
脱衣所に脱いだ洋服をきちんとたたんで入浴しているみいに
毎晩声をかけた。
「 みい 洋服着替えなさいね。 」
「 わ か っ た 」 と返事が返ってきた。
長い間 注意してやらないと着替えることが出来なかった。
私は毎晩 入浴中のみいに声をかけた。


退院当初
私は 
障害の残ったみいを一生診ていかなければいけないんだ。と
不安で仕方がなかった。


みいは午後の決まった時間は
2階の自分の部屋に入りぐっすりと眠っていたようであった。


一定のリズムでみいの生活が始まった。

私は
平凡な毎日に 敢えて変化を持たせようと試みた。



平成24年6月26日~27日
雨降りを承知で
HAYATOの誕生日に
佐世保 ハウステンボスで一泊二日を過ごす計画を立てた。

みいはその夜バイキングを堪能した。
私達はみいのその食欲に驚いたが
干渉はしないよう努めた。

あんなに食べることを拒んでいたみいの口元に
沢山の御馳走が寄せられることに私は安堵した。
過食と言えるその食欲に私は喜びさえ感じた。

その夜
私と二人だけの部屋のベットの中で
「 うち 食べていなかったの? 」
「 なんで 入院していたの? 」
繰り返し繰り返し 私に訪ねてきた。

ドアを開け放した隣の部屋のベットの中からは
主人の軽いいびきと
HAYATOの心地良い寝息が聞こえていた。




ハウステンボスのコテージ 「フォレスト ヴィラ」の上に
静かに雨が降り注いでいた。






       障害が残ってもいい。
       みいは 生きている。

       私は心底 そう思えた。