摂食障害の娘と共に 追憶
真夜中
ふ~~と目が覚めた。
しとしとと降る雨の音がしていた。
今日はHAYATOの誕生日だ。
なんだか
いろんな思いが交差し始めたので
思いきってベットから出て
パソコンのスイッチを入れた。
窓の外では
カエルの大合唱と
草むらの中の虫たちの大合唱が
競うように響き合い
耳鳴りのように私の聴覚を支配し
脳の中を埋め尽くしている。
2年前の頃を思い出した。
平成23年秋
摂食障害の娘を抱えて
私は行き先のわからない人生に悩み苦しんでいた。
私は悪夢に悩まされていた。
その頃のブログを開いて見てみた・・・。
そこには
当時
なす術のない苦しさに打ちのめされた胸の内が
書かれていた。
==平成23年11月 記事より==
私は決まって
70年代後半に世界中で大ヒットしたオカルト映画
「エクソシスト」や「オーメン666」が頭の中に浮かんでくる。
可愛い女の子や小さな男の子の内に潜む悪霊を
神父が退治しようとすると
最後に必ず
悪霊が「 助けて・・・・」と かわいい愛しい声を出す。
悪霊を退治しようとしている神父の手が止まってしまう。
悪夢だ・・・
不謹慎極まりないと思うが
なぜだか
若いころに夢中になってみたあの映画のシーンが
鮮明によみがえってくる。
娘は私を怒らせた後 必ず 沈んだ声でいう。
「 うち どこも悪くないよ。
ただ 心臓が苦しくなる。
動悸がひどい・・・。」 私は怒りを沈め
娘を救わなければ・・と居たたまれなくなる。
心療内科を必要としているのは私かも知れない。
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摂食障害に拍車がかかり始め
内科医の手が必要となった頃のことである。
みいは
私に救いを求めたかと思うと
急に怒りを私に向かってぶつけてきた。
怒りを吐き出した後
幼子のようになって
再びその心は 私にしがみついてきた。
私は 親と言えども
未熟な独りの人間である。
どうすればいいのか・・・。 途方に暮れていた。
みいがぶつけてくる感情を 私は
「 そうね・・。 そうよね・・。」と
相槌を打つしかなった。
そして
なす術のなさに打ちのめされていた。
怒りをすっかり吐き出した後のみいは
鼻歌を歌うかのように
気分がよさそうだった。
昨年 4月~5月
生死の境をさまよったみいは
感情のコントロールがまったく出来なかった。
動くことのできないベットの上で
声にならない声を発して
病棟中響き渡る様な大声で
母親である私を罵った。
処置を下そうとしてくださる看護師さんたちに向かっても
罵声を浴びさせていた。
落ち着いているときの方が少なく
私は
腫れ物に触るかのように
そっと接していた。
みいが
ベットの上で
眠りについているときは
ほっとしたものである。
思うようにならない怒りは
私にだけではなく
接してくれる周りのすべての人に向かって
吐き出された。
私は
みっともなくて・・ なさけなくて・・・
打ちのめされていた。
内科医はそっと気の毒そうに私に告げた。
遠慮がちに私に告げた。
「 このまま・・・
言葉は悪いんですが
うまく・・ 騙して・・・
精神病院への転院を考えられた方がいいように
思いますが・・。」と
しかし
私はみいの心の奥底が見えていた。
みいは
育ってきた自宅で過ごすのが大好きだった。
私は
連れて帰ると症状が緩和すると信じていた。
そして
昨年 尿路結石の手術を執刀してくださった医師に
心から
本当に 心の奥底から頭を下げて
みいを自宅に連れて帰ったのである。
主人の不安も 反対も無視して
「 大丈夫よ。 絶対大丈夫!」と
強制的に 退院後自宅にみいをおいた。
そっと みいを空っぽの家においた。
そこには
ストレスのない時間が流れていた。
私は
みいが生まれ
自我が育っていく時から
当然 母親としてみいを見つめ育ててきた。
みいは
自我が強く 非常に頑固な子供だった。
家族が出かけた後の一人で過ごす時間が
大好きな子供だった。
みいを
一人で自由に過ごさせるのが
この場においては一番の妙薬である様に思われた。
生まれ落ちてからずーと見つめてきた
母親としての私の直観であった。
その思いは的中した。
みいは
ストレスのない時間の中で
ゆっくりと自分を取り戻してきた。
思考能力に欠けているかのようにみえたみいの症状も
時間が解決してくれた様に思われた。
そして
その食生活は偏っているかのように感じたが
あえて
口を挟まずに見て見ぬふりをして
みいの回復を待ってみた。
流れていく日々の中で
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という格言が
みいの
症状の緩和の根源となったのである。
私は
みいの心が戻ってくるのを
息を凝らして待ってみた。
このまま精神障害をもったまま
一生を送るかもしれないという不安を抱えながら
息を凝らして待ってみた。
重度の摂食障害を患ったみいは
一変に
その症状に終止符を打ったわけではない。
現在 みいの周りには
美味しそうなお菓子やケーキ アイスクリームなどの
嗜好品があふれている。
その量は多くない。
過食と呼ぶのは見当違いである。
少しずつ口にしては
食べることを楽しんでいるようである。
それは
目を背けるようなものではないので
今の私は敢えてみいに食について意見をしない。
みいは
家族の食生活は
実にバランスよく整えることが出来るようになった。
夕食時のみいのお皿は
量は多くないが
きちんと家族と同じおかずが盛り付けられている。
ごはんは食べようとしないが
後片づけをしながら
好みのパンに手が伸びているのを
私は見ぬふりをしている。
いろんな人間がいて
いろんな癖があり
いろんな持病を持ちながら
それぞれ今日という日を暮らしている。
私はいつもこのことを自分自身に言い聞かせている。
みいは
食べることについて
少しだけ
普通ではないと思われるが
ちょっとした持病を持っていると思えば大したことではない。
そう
自分に言い聞かせながら
今私は
みいと共に生きている。
「 十人十色 」
みいと共に生きていくうえで
私が念頭に置いている言葉である。
親子であるが私の思いどうりに行かない。
家族であるが私と同じ考えではない。
共に暮らしているが個人の集合である。
その違う個性同士が共に暮らしていくためには
私が見つけ出した答えの一つである。
「 十人十色 」
振り返ってみると
私はみいの回復にどんな事が出来たのだろうか・・・
黙って見守っていただけであるように感じる。
ただ心がけていたのは
「 みいを必要としているよ 」と
みいに感じてもらえるように言葉を選んだ。
そして
「 ありがとう 」という言葉を
たくさん投げかけることを心がけた。
更に
目先にたくさんの楽しみを準備して日々を暮らした。
家族でしか
乗り越えてこれなかった厄介な病気を
私達は支え合って乗り越えてきた。
まだ 乗り越えた とは言えないかもしれないが・・
「 山あり
谷あり
これも人生 」
苦しいときに
いつも口癖にしていた主人の言葉に
何故だか納得させられ述懐される。
「 よ~~~し
いつの日かこいつとはおさらばだ!」と
意見が食い違ったり
夫婦げんかの後に
離婚を夢見ていた()若いころの私だったが
今度ばかりは
夫婦で支え合いながら
山と呼ぶのか
谷と言えばいいのか解らないが
共に人生を歩んできた。
残された時間がそろそろ見え始めた。
日々の生活の中で
小さな楽しみを満喫しながら
生きていこうと
強く言い聞かせるこの頃である。
アジサイの花の盛りが過ぎていこうとしている。
そして
綺麗なドレスをまとった娘たちの舞踏会のような
合歓の木(ねむのき)の花の季節も
過ぎていこうとしている。
綺麗なドレスで飾った全ての娘たちを
お日さまに向かって
アプローチさせようと
横に横に枝を広げていく合歓の木のその姿は
どの子供も一様にかわいいと思う
親の気持ちに重なって心魅かれる。
( この綺麗なピンクの花弁が雄しべであることを
私はあえて
知らないことにしている。)
みいの大好きな
天女の羽衣のような合歓の木の花も
続く雨のなかで
散っていこうとしている。
連日のように世界遺産登録で沸いた
静岡県三保の松原に残る
「 天女の羽衣 」伝説のような風景が
私の暮らす町の海辺でも繰り広げられている。
もし私が天女なら
さやさやと優しげに伸びた合歓の木の枝先と
固い松の枝先が並んで伸びているなら
迷うことなく
合歓の木に羽衣をかけるだろう。
あなたが天女で
合歓の木と松の木が並んでいたなら
どちらの枝に羽衣をかける・・・・?
( 海に延びた合歓の木と松の木)
(私の職場に隣接した海に伸びた合歓の木)
HAYATOは今日 7歳の誕生日を迎える。
みいは今日の夕食を
HAYATOと共に
「 鯛の兜焼き 」を
つくる予定を立てている。
みいの感情は常に安定している。
突然怒り出したり 暴言をはいていたのは
心身ともに極限状態の時のもので
すでに 過去のものとなった。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」