鯉って 食べられる?
ある日
HAYATOが何を思ったのか
突然 口にした。
「 ねぇ コイって 食べられる? 」
もちろん!!
「 美味しいよ。
でも・・・ 子供はちょっと・・ね。」
それから
仕事 仕事 で てんてこ舞いの日々が続いた。
思いがけず 早く仕事が終わった日曜日の夕方
疲れもあんまりない!
そこで
HAYATOの言っていた
「 コイって 食べれるの? 」が気になった。
大急ぎで自宅に帰り汗臭い服を着替えた。
普段着で家族そろって車に乗り込んだ。
元気といっても少々疲れ気味。
仕事を手伝ってくれた主人はビールを飲んでしまった。
そこで
みいがハンドルをにぎった。
深い山里に向かって
車を走らせること30分
HAYATOが
「 ねぇ まだぁ 」と言い始めた頃に到着。
「 このコイ 食べるの?
赤いのも食べれる? 」
赤いコイは
食べれるだろうが・・・
食べないだろう。
理由がわからないので話を逸らした。
食べるの大好きなHAYATOは
目を輝かせた。
ここは 長崎県北部のど真ん中の山の中
長崎にもイノシシはうじゃうじゃいるのに
どうして「 宮崎県特産 」を扱っているんだろう・・・?
と 気になりつつ 橋を渡り
離れ小部屋へと案内された。
出発する前に予約を入れておいたので
部屋には
「 鯉のあらい 」が出来上がっていた。
山椒ヌタがとっても美味しくて
鯉のあらい がすすんだ。
一口食べたHAYATOは
一生懸命かみしめた。
「 美味しい? 」
「 うん 」
しかし 神妙な顔をして
吐き出してしまった。
やっぱり 子供の口には合わなかった。
HAYATOの為に
「 チキンバー 茶わん蒸し 枝豆 」を注文して
最後に
「 鯉こく 」と「 ごはん 」を頼んだ。
冷たくて 生臭い( 実は生臭くはない)鯉のあらいに
暖かく スパイスが効いたチキンバーが
よく合って 美味しかった。
川のせせらぎを聞きながら
小さな個室での食事は美味しく
箸の進むみいを横目で見ながら
楽しい時間が過ぎていった。
鯉こくを飲みながら ご飯を食べて フィニッシュ 。
陽が沈み
外が暗くなった頃
満腹になって 部屋を出た。
休日もとれないてんてこ舞いの毎日が
5月から続いている。
お盆の休暇まで
泣き言を言わず頑張っている日々の中の
ちょっぴり
息抜きの一夜
もう ひと頑張り働けば お盆休暇。
私は
間もなくやってくるこの貴重な4日間を
宮崎南部の高千穂から
九州を縦断して北部の高千穂までの
秘境の地を旅する計画をたてた。
熊本県多良木町の槻木地区を訪ねるのが
今回の旅の目的である。
現在 限界集落とされているこの地区は
実母が家族と共に
小学生のころから16歳まで暮らした山里である。
母は16歳で親兄妹と別れ大阪へと移り住んだ。
戦争により大阪の街を後にして
徳島の親族を頼って疎開し
そこで結婚をし家族を守り生涯を閉じた。
かつてから
行ってみたかった場所である。
母の故郷と呼べる場所である。
いつも
突拍子もない私の無謀な計画に
快く付き合ってくれる主人は
秘境の地へと出かける旅のドライバーを務める事を
楽しみにしている様子である。
主人と二人っきりで行くはずの地に
病気を克服した次女みいと
かけがえのない家族となったHAYATOが加わり
楽しい道中が想像できる。
今回の旅を母の弟である叔父に相談した。
老いても尚
文学に 絵画に と
尽きることのない向学心を燃やし続けている叔父から
詳しい地図や
地域の関連の記事のコピーが届いた。
絵を見ているような綺麗な文字で書かれた
手紙が添えられていた。
母との幼いころの思い出や
母の幼いころの友人の消息等
詳しく綴られていた。
「 九州山地縦断踏波想い出になります。
元気でいってらっしゃい。 」
と締めくくられていた。
叔父から小包と言えるほどの手紙が届いた。
沢山の兄弟姉妹の中で
私の母と一番仲が良かった叔父は
佐賀唐津に住み
徳島で育った私が九州に嫁いできたことを
ことのほか喜んでくれた。
親代わりとなって交流を深めてきた。
その叔父は今年88歳を迎えた。
叔父と交流を深める日々は
一体どれくらい残されているのだろうか。
私は
暖かい叔父の手紙から
なんだか大きな「 叔父孝行 」を務めることが
出来たように感じた。