
2018年03月15日
にい 目を開けて・・。
午前7時過ぎ
高松を通り過ぎた夜行バスのアナウンスで
すっきりと目が覚めた。
「 間もなく高速三木です。」
昨夜ほぼ満員で福岡を出発した夜行バスは
大部分の乗客が高松で下車をしたため
車内に残された乗客は疎らだった。
窓には
分厚い遮光カーテンが丈夫なボタンで止められ
完全に外からの明かりを遮断して
車内はまだ闇の中であった。
眠っている他の乗客に遠慮して
一番下のボタンを外し
少しだけ隙間をつくり外を覗いた。
窓ガラスの結露越しに
穏やかな朝の風景が流れ去っていった。
そっとガラスを指で拭うと
ぼんやりとした朝もやの中に
山から登ったばかりのお日様が浮かんでいた。
野山の枯れ草は霜で凍り
点在する民家の屋根は射し始めた朝日で
キラキラと光っていた。
夜行バス「コトバスエクスプレス」は
山の斜面を走る「高松自動車道」を快適に走行していた。
凍り付いた山のあちこちに高木の落葉樹が
朝もやの中でボーと浮かび上がっていた。
その幻想的な風景は
冬山に沢山の「葉脈しおり」を飾った絵画のようだった。
高速夜行バスの窓から眺める景色は
里山から田舎町へ移り更に街並みへと変わり
吉野川を横切る事で
確実に徳島市街地へと入ったのが解った。
昨年から膵臓ガンを患っている兄は
今年に入り徳島・小松島市の赤十字病院への入院を
強いられていたのである。
今年に入り何回か兄を見舞っていたので
夜行バスで行き新幹線を利用して帰ってくる事が
手際よく出来るようになっていた。
数日前に長兄の容態が悪化したのが気になり
居ても立っても居れず
金曜日に夜行バス「琴バス」の予約を取った。
土曜日の仕事が終わると自宅に戻りシャワーを浴びて
佐世保駅前から福岡への
午後7時15分の高速バスに乗った。
福岡までの高速バスの中で
みいがつくって持たせてくれたおにぎりを晩御飯にした。
午後9時9分博多天神バスターミナルで下車し
タクシーでキャナルシティ博多前の琴バス乗り場へと移動し
9時45分の夜行バス「コトバスエクスプレス」に乗り込んだ。

夜行バス「コトバスエクスプレス」は
九州自動車道~山陽自動車道~瀬戸中央自動車道を通り
高松自動車道経由で徳島駅前のバス停に
日曜日午前8時32分に到着した。
雲一つない 爽やかな暖かい朝だった。
( 徳島駅前 )
徳島駅から南小松島駅へと電車で移動し
午前10時には兄の病室にいた。
容態の悪化をしった大阪に住む姉も心を痛め
義兄の運転で共に兄を見舞った。
明るい個室で兄は目を開けることはなかった。
「にい 起きて。 純子よ。 わかる?」
私はドラマのように
兄が目を覚ましてくれるのではないかと願った。
ペラペラ喋る私は口数多く兄に話しかけた。
おとなしい姉は多くを喋りかけなかった。
今の兄の容態が膵臓ガンの症状でないことを
義姉は主治医から説明を受けていた。
脳梗塞かガンが脳に転移しているのではないかと
いうことであった。
兄は何種類かの点滴を受けていた。
その中の一つに痛みを止める点滴があった。
すやすやと眠り意識がないと告げられたが
私や姉は
兄が全てを感じていると信じた。
私たちは時々兄に声をかけながら
ベットのそばで好き勝手なおしゃべりをして
6時間ほどを過ごした。
私は電車の時間があったので午後4時に兄に別れを告げた。
義兄と共に車で大阪に帰る姉も一緒に腰を上げた。
「 にい。 帰るね。 又来るからね。
ゆっくりねむっときね。 」と私は声をかけた。
「 あほなこと言わんときや。
ゆっくり眠とったらあかんやない。
早よう 目えさましや。」と姉は言った。
兄が病気になり私たちは兄と会う回数が増えていた。
意識不明に陥るまでは兄はよく喋った。
子供の頃の話は尽きることがなかった。
戦争が終わり日本の成長期の時代を育った私達兄妹は
幼いころの思い出話が
湧き出てくる泉の如く途切れることは無かった。
薪で沸かした風呂当番の話し
野山やたんぼで遊んだ日々
夏の川遊びの話し
七夕飾りの話し
庭での月見団子の話し
いくり・柿の木・みかんの木・梨の木
ビワの木・ 柚子の木
全てが両親や祖父母がつくりあげてくれた
家族の思い出話である。
年の離れている兄は時には親代わりとなって
私達4人兄妹をまとめ守ってきてくれたのである。
全ての家庭にテレビのない時代に
早くテレビをひいた親戚の家に私達を連れて見に行き
夜中の帰り道の幽霊の話し。
ど田舎の山の中の村から
兄妹で徳島市内へ阿波踊りを見に行き旅館に泊まった話し
どうやって食べていいのか解らなかった朝ごはん。
映画を見に行った帰り
満員のバスにギューギュー押し込まれた話し
長兄はいつも
私や姉 今は亡き次兄を連れて行動していた。
病気になった兄を見舞いに行くたびに
昔ばなしは尽きることがなかった。
「 お前ら・・ 覚えとるか?」と始まるのである。
「 ちゃんと覚えてるよ。」と続いた。
思い出話と共に
思い出で終わらせられない問題を私達は抱えていた。
昨年12月の事である。
兄は膵臓がんとわかり闘病生活に入った時に
会いに行った私に言った。
「 純子 親父が大事にしていた写真の事だけど・・
年の若いお前に頼んでおきたいんだが。
九州に住んでいるのでお前なら出来るはずだから。」
と 口火をきった。
「 親父が大事にして額に入れて飾ってあった戦争の写真を
しっとるやろ。
親父が牛島満と一緒に写っとる写真や。
あの写真を牛島満氏の子孫が鹿児島に住んでいるはずだから
探して返してやって欲しい。」 と。

牛島満氏と共に
右から三人目が父である。
私は ここに来て・・・・
この時代になって・・・・
戦争のことに触れるなんて思いもしていなかった。
子供のころから父に耳にタコができるくらい聞かされてきたが
心に止めることがなかった方の名前である。
「 ウシジマ ミツル 」
沖縄戦司令官の牛島満大将の事である。

( 右端が父 )
終戦間際 母は大阪から
徳島の山の中に住む親せきへ疎開を強いられた。
終戦を迎え無事生きて帰ってきた父
二人は戦争があったので出会った。
そして 私達は生まれた。
その両親の下で 一緒に育ち沢山の時間を共有した。
亡き父の生前の願いであった
「牛島満氏の写真を家族に届けてやりたい」という思いを
兄は遺言として
私に託そうとしたのである。

今まで一度も気に留めたことがない問題であったが
インターネットで検索してみた。
いとも簡単に突き止めることが出来た。
牛島満氏の写真を誰に届ければいいのかが。
兄は大きな宿題を私に与えた。
兄は再び私に指示を与えてくれるのだろうか?
もう一度目を開けて私たちを見てくれるのだろうか?
私はどのように判断して
この問題を解いていけばいいのだろうか?
亡き父は数枚の戦争現場の写真を大切に持っていた。
それは今も私の実家で大切にされている。

兄のベットのそばで牛島氏の話を交わした。
時々 苦しそうな顔をして顔を横に振った。
「 違うぞ 間違って覚えとるぞ! 」と
言っているかのようだった。
きっと 「 違うぞ! 」と言ったはずである。
腰を上げなけらばいけない時間は
あっと言う間にやってきた。
「にい 帰るよ。・・・」
目を閉じて 口を開けない兄だけれど
眉間にいっぱいのしわを寄せ
口元をへの字に結びしわを寄せた。
兄は泣いた・・。
兄はすべて解っているのである。
兄の意識は不明ではない
ただ 言い表せないだけで・・・。
病院の玄関で姉たち夫婦と別れた。
義姉に背を向けて私は家族の下へと家路を急いだ。
南小松島は一日中春の気配が漂っていた。

赤十字病院から 徒歩10分で駅に着いた。
道端で 桜が花開き始めていた。
南小松島を午後4時13分の電車に乗った。
徳島駅でうずしお特急に乗り換えると
後は岡山までは乗り換えなしで良かった。
午後6時47分に岡山駅に着いた。
( 瀬戸大橋 与島の夕日 )
新幹線に乗り換えて博多まで帰り
博多駅からの高速バスで佐世保へと帰りついた。
家族が寝静まった夜中にゆっくりとお風呂に入った。
靄の中で 一日が始まった。
もう冬に後戻りすることはないはずである。
私は何もなかったかのようにお弁当をつくって出勤した。
いつものように元気に働いた。
一日の仕事はあっという間に終わった。
ほっと一息をついて夕方を迎えた。
兄の見舞いに行きたかった。
決して意識不明ではない兄に話しかけたかった。
何の力にもなれないが
意識は不明ではないはずの兄に話しかけたかった。

高松を通り過ぎた夜行バスのアナウンスで
すっきりと目が覚めた。
「 間もなく高速三木です。」
昨夜ほぼ満員で福岡を出発した夜行バスは
大部分の乗客が高松で下車をしたため
車内に残された乗客は疎らだった。
窓には
分厚い遮光カーテンが丈夫なボタンで止められ
完全に外からの明かりを遮断して
車内はまだ闇の中であった。
眠っている他の乗客に遠慮して
一番下のボタンを外し
少しだけ隙間をつくり外を覗いた。
窓ガラスの結露越しに
穏やかな朝の風景が流れ去っていった。
そっとガラスを指で拭うと
ぼんやりとした朝もやの中に
山から登ったばかりのお日様が浮かんでいた。
野山の枯れ草は霜で凍り
点在する民家の屋根は射し始めた朝日で
キラキラと光っていた。
夜行バス「コトバスエクスプレス」は
山の斜面を走る「高松自動車道」を快適に走行していた。
凍り付いた山のあちこちに高木の落葉樹が
朝もやの中でボーと浮かび上がっていた。
その幻想的な風景は
冬山に沢山の「葉脈しおり」を飾った絵画のようだった。
高速夜行バスの窓から眺める景色は
里山から田舎町へ移り更に街並みへと変わり
吉野川を横切る事で
確実に徳島市街地へと入ったのが解った。
昨年から膵臓ガンを患っている兄は
今年に入り徳島・小松島市の赤十字病院への入院を
強いられていたのである。
今年に入り何回か兄を見舞っていたので
夜行バスで行き新幹線を利用して帰ってくる事が
手際よく出来るようになっていた。
数日前に長兄の容態が悪化したのが気になり
居ても立っても居れず
金曜日に夜行バス「琴バス」の予約を取った。
土曜日の仕事が終わると自宅に戻りシャワーを浴びて
佐世保駅前から福岡への
午後7時15分の高速バスに乗った。
福岡までの高速バスの中で
みいがつくって持たせてくれたおにぎりを晩御飯にした。
午後9時9分博多天神バスターミナルで下車し
タクシーでキャナルシティ博多前の琴バス乗り場へと移動し
9時45分の夜行バス「コトバスエクスプレス」に乗り込んだ。


夜行バス「コトバスエクスプレス」は
九州自動車道~山陽自動車道~瀬戸中央自動車道を通り
高松自動車道経由で徳島駅前のバス停に
日曜日午前8時32分に到着した。
雲一つない 爽やかな暖かい朝だった。

( 徳島駅前 )
徳島駅から南小松島駅へと電車で移動し
午前10時には兄の病室にいた。
容態の悪化をしった大阪に住む姉も心を痛め
義兄の運転で共に兄を見舞った。
明るい個室で兄は目を開けることはなかった。
「にい 起きて。 純子よ。 わかる?」
私はドラマのように
兄が目を覚ましてくれるのではないかと願った。
ペラペラ喋る私は口数多く兄に話しかけた。
おとなしい姉は多くを喋りかけなかった。
今の兄の容態が膵臓ガンの症状でないことを
義姉は主治医から説明を受けていた。
脳梗塞かガンが脳に転移しているのではないかと
いうことであった。
兄は何種類かの点滴を受けていた。
その中の一つに痛みを止める点滴があった。
すやすやと眠り意識がないと告げられたが
私や姉は
兄が全てを感じていると信じた。
私たちは時々兄に声をかけながら
ベットのそばで好き勝手なおしゃべりをして
6時間ほどを過ごした。
私は電車の時間があったので午後4時に兄に別れを告げた。
義兄と共に車で大阪に帰る姉も一緒に腰を上げた。
「 にい。 帰るね。 又来るからね。
ゆっくりねむっときね。 」と私は声をかけた。
「 あほなこと言わんときや。
ゆっくり眠とったらあかんやない。
早よう 目えさましや。」と姉は言った。
兄が病気になり私たちは兄と会う回数が増えていた。
意識不明に陥るまでは兄はよく喋った。
子供の頃の話は尽きることがなかった。
戦争が終わり日本の成長期の時代を育った私達兄妹は
幼いころの思い出話が
湧き出てくる泉の如く途切れることは無かった。
薪で沸かした風呂当番の話し
野山やたんぼで遊んだ日々
夏の川遊びの話し
七夕飾りの話し
庭での月見団子の話し
いくり・柿の木・みかんの木・梨の木
ビワの木・ 柚子の木
全てが両親や祖父母がつくりあげてくれた
家族の思い出話である。
年の離れている兄は時には親代わりとなって
私達4人兄妹をまとめ守ってきてくれたのである。
全ての家庭にテレビのない時代に
早くテレビをひいた親戚の家に私達を連れて見に行き
夜中の帰り道の幽霊の話し。
ど田舎の山の中の村から
兄妹で徳島市内へ阿波踊りを見に行き旅館に泊まった話し
どうやって食べていいのか解らなかった朝ごはん。
映画を見に行った帰り
満員のバスにギューギュー押し込まれた話し
長兄はいつも
私や姉 今は亡き次兄を連れて行動していた。
病気になった兄を見舞いに行くたびに
昔ばなしは尽きることがなかった。
「 お前ら・・ 覚えとるか?」と始まるのである。
「 ちゃんと覚えてるよ。」と続いた。
思い出話と共に
思い出で終わらせられない問題を私達は抱えていた。
昨年12月の事である。
兄は膵臓がんとわかり闘病生活に入った時に
会いに行った私に言った。
「 純子 親父が大事にしていた写真の事だけど・・
年の若いお前に頼んでおきたいんだが。
九州に住んでいるのでお前なら出来るはずだから。」
と 口火をきった。
「 親父が大事にして額に入れて飾ってあった戦争の写真を
しっとるやろ。
親父が牛島満と一緒に写っとる写真や。
あの写真を牛島満氏の子孫が鹿児島に住んでいるはずだから
探して返してやって欲しい。」 と。

牛島満氏と共に
右から三人目が父である。
私は ここに来て・・・・
この時代になって・・・・
戦争のことに触れるなんて思いもしていなかった。
子供のころから父に耳にタコができるくらい聞かされてきたが
心に止めることがなかった方の名前である。
「 ウシジマ ミツル 」
沖縄戦司令官の牛島満大将の事である。

( 右端が父 )
終戦間際 母は大阪から
徳島の山の中に住む親せきへ疎開を強いられた。
終戦を迎え無事生きて帰ってきた父
二人は戦争があったので出会った。
そして 私達は生まれた。
その両親の下で 一緒に育ち沢山の時間を共有した。
亡き父の生前の願いであった
「牛島満氏の写真を家族に届けてやりたい」という思いを
兄は遺言として
私に託そうとしたのである。

今まで一度も気に留めたことがない問題であったが
インターネットで検索してみた。
いとも簡単に突き止めることが出来た。
牛島満氏の写真を誰に届ければいいのかが。
兄は大きな宿題を私に与えた。
兄は再び私に指示を与えてくれるのだろうか?
もう一度目を開けて私たちを見てくれるのだろうか?
私はどのように判断して
この問題を解いていけばいいのだろうか?
亡き父は数枚の戦争現場の写真を大切に持っていた。
それは今も私の実家で大切にされている。

兄のベットのそばで牛島氏の話を交わした。
時々 苦しそうな顔をして顔を横に振った。
「 違うぞ 間違って覚えとるぞ! 」と
言っているかのようだった。
きっと 「 違うぞ! 」と言ったはずである。
腰を上げなけらばいけない時間は
あっと言う間にやってきた。
「にい 帰るよ。・・・」
目を閉じて 口を開けない兄だけれど
眉間にいっぱいのしわを寄せ
口元をへの字に結びしわを寄せた。
兄は泣いた・・。
兄はすべて解っているのである。
兄の意識は不明ではない
ただ 言い表せないだけで・・・。
病院の玄関で姉たち夫婦と別れた。
義姉に背を向けて私は家族の下へと家路を急いだ。
南小松島は一日中春の気配が漂っていた。

赤十字病院から 徒歩10分で駅に着いた。
道端で 桜が花開き始めていた。
南小松島を午後4時13分の電車に乗った。
徳島駅でうずしお特急に乗り換えると
後は岡山までは乗り換えなしで良かった。
午後6時47分に岡山駅に着いた。

( 瀬戸大橋 与島の夕日 )
新幹線に乗り換えて博多まで帰り
博多駅からの高速バスで佐世保へと帰りついた。
家族が寝静まった夜中にゆっくりとお風呂に入った。

靄の中で 一日が始まった。
もう冬に後戻りすることはないはずである。
私は何もなかったかのようにお弁当をつくって出勤した。
いつものように元気に働いた。
一日の仕事はあっという間に終わった。
ほっと一息をついて夕方を迎えた。
兄の見舞いに行きたかった。
決して意識不明ではない兄に話しかけたかった。
何の力にもなれないが
意識は不明ではないはずの兄に話しかけたかった。

Posted by パールじゅんこ at 01:28│Comments(0)