
2018年03月30日
さようなら にい
朝食の準備をしていた私は
落ち着いて電話の向こうの義姉の声を聞いた。
兄は永遠の眠りに付いたのである。
苦しい闘病生活が長引かないでよかったねと
心の底から思った。
ほのぼのと「春分の日」が始まった朝であった。

一時も早く 兄の下へ駆けつけたかった。
どのコースを取れば一番早く実家に帰れるのかを
考えながら急いで朝食を済ませた。
フェリーの時間を調べ
荷物をトランクに入れ主人と共に午前9時30分家を出た。
祝日なので高速道路はよく空いていた。
九州から四国へ渡る宇和島運輸フェリーを選択し
大分別府港へと向かった。
愛媛八幡浜港までのフェリーの中で
3時間ほど仮眠をとった。
四国に着くと沿道の桜がちらほらと咲き始めていた。
愛媛~香川~徳島市内を経由して 更に南下し
日付が変わる少し前に実家に着いた。
自宅を出て14時間経っていた。
兄は綺麗な顔をしてねむりについてしまっていた。
「 おぅ 来たか。 遠かったなぁ。」と
言ってほしかった。
大阪で暮らす姉と二人っきりで朝まで兄のそばにいた。
兄の横で
深い山村で過ごした幼少のころの話に花を咲かせた。
故郷の山や川で遊んだ思い出は尽きることがなかった。
これからは
兄が話に加わらないんだと思うと
言いようのない悲しみが押し寄せてきた。

家族葬を望んでいた兄の遺言通り
葬式は質素に身内と極近い親族だけで執り行われた。
他人に負担を掛けさせたがらなかった兄の思い通り
小さな斎場で厳かに式は行われた。
義父や義母の葬式を出した経験から
兄の希望は
残された者にとって非常にありがたかった。
主人の両親の葬式を出すため
更に葬式が終わった後まで
私や主人は神経をすり減らしへとへとで
本当に疲れ果てた経験を持っていたからである。
見栄も捨て 残された家族の負担を抑え
ひっそりと静かに消えていきたかった兄の思いを
私は兄らしいと思った。

義姉と
義姉を支える甥 姪家族に別れを告げて
実家を後にした。
八幡浜港の近くでは桜がいっぺんに花開き始めた。

いつか
いつの日か
私も消えてしまうんだ・・・
沢山の愛する人たちが消えていった。
懐かしい父や母も二人の兄も 祖母も
優しかった義父も義母も
そして 愛犬レオンも・・・
でも み~~んな
私の記憶の中で鮮明に生きているのである。
いつまで経っても生き続けているのである。
残された私は定命が尽きるまで
前を向いて
明日に向かって
進んで行くしかないのである。

私は
相変わらず忙しかった。
超零細企業で務める私は仕事に追われ続けていた。
「 こんなはずではなかったが
二つの道を進むことはできない。」
といつも自分に言い聞かせて生きてきた。
こんなに仕事ばかりに没頭していなかったら
もっと兄の下に足を運べただろうに・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
女友達と楽しい時間を取れたはずなのに・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
嫁いだ娘たちを招き
手料理でもてなすことができるのに・・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
大好きな家庭菜園に時間を費やせるのに・・・
しかし 二つの道を歩むことはできないから
「 これで良し!」 とするしかない。
こんなに仕事をしてきたので
たくさん旅行に行った。
こんなに仕事ばかりしてきたので
娘たちを何不自由なく育てることが出来た。
こんなに仕事ばかりしてきたので
たくさんの得るものがあった。
3年前に退職した主人は
同じ職場に再雇用で更にこの春まで務めた。
そして一昨日完全に退職をした。
自由を手に入れた主人と
新たな生活が繰り広げられることになる。
私達には残された時間が限られてきた事が
ひしひしと感じさせられる。
自然と波に流されながら
行くところまで行くしかないのかな・・・?
神様しか知らない私自身に与えられたこの人生を
悔いのないように生きるのはとても難しいが
懸命に丁寧に進むしかない。

私は 果たさなければならない兄との約束がある。
実家には父が大切にしていた
「牛島満」氏の写真がある。

落ち着いて電話の向こうの義姉の声を聞いた。
兄は永遠の眠りに付いたのである。
苦しい闘病生活が長引かないでよかったねと
心の底から思った。
ほのぼのと「春分の日」が始まった朝であった。

一時も早く 兄の下へ駆けつけたかった。
どのコースを取れば一番早く実家に帰れるのかを
考えながら急いで朝食を済ませた。
フェリーの時間を調べ
荷物をトランクに入れ主人と共に午前9時30分家を出た。
祝日なので高速道路はよく空いていた。
九州から四国へ渡る宇和島運輸フェリーを選択し
大分別府港へと向かった。
愛媛八幡浜港までのフェリーの中で
3時間ほど仮眠をとった。
四国に着くと沿道の桜がちらほらと咲き始めていた。
愛媛~香川~徳島市内を経由して 更に南下し
日付が変わる少し前に実家に着いた。
自宅を出て14時間経っていた。
兄は綺麗な顔をしてねむりについてしまっていた。
「 おぅ 来たか。 遠かったなぁ。」と
言ってほしかった。
大阪で暮らす姉と二人っきりで朝まで兄のそばにいた。
兄の横で
深い山村で過ごした幼少のころの話に花を咲かせた。
故郷の山や川で遊んだ思い出は尽きることがなかった。
これからは
兄が話に加わらないんだと思うと
言いようのない悲しみが押し寄せてきた。

家族葬を望んでいた兄の遺言通り
葬式は質素に身内と極近い親族だけで執り行われた。
他人に負担を掛けさせたがらなかった兄の思い通り
小さな斎場で厳かに式は行われた。
義父や義母の葬式を出した経験から
兄の希望は
残された者にとって非常にありがたかった。
主人の両親の葬式を出すため
更に葬式が終わった後まで
私や主人は神経をすり減らしへとへとで
本当に疲れ果てた経験を持っていたからである。
見栄も捨て 残された家族の負担を抑え
ひっそりと静かに消えていきたかった兄の思いを
私は兄らしいと思った。

義姉と
義姉を支える甥 姪家族に別れを告げて
実家を後にした。
八幡浜港の近くでは桜がいっぺんに花開き始めた。

いつか
いつの日か
私も消えてしまうんだ・・・
沢山の愛する人たちが消えていった。
懐かしい父や母も二人の兄も 祖母も
優しかった義父も義母も
そして 愛犬レオンも・・・
でも み~~んな
私の記憶の中で鮮明に生きているのである。
いつまで経っても生き続けているのである。
残された私は定命が尽きるまで
前を向いて
明日に向かって
進んで行くしかないのである。

私は
相変わらず忙しかった。
超零細企業で務める私は仕事に追われ続けていた。
「 こんなはずではなかったが
二つの道を進むことはできない。」
といつも自分に言い聞かせて生きてきた。
こんなに仕事ばかりに没頭していなかったら
もっと兄の下に足を運べただろうに・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
女友達と楽しい時間を取れたはずなのに・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
嫁いだ娘たちを招き
手料理でもてなすことができるのに・・・
こんなに仕事ばかりしていなかったら
大好きな家庭菜園に時間を費やせるのに・・・
しかし 二つの道を歩むことはできないから
「 これで良し!」 とするしかない。
こんなに仕事をしてきたので
たくさん旅行に行った。
こんなに仕事ばかりしてきたので
娘たちを何不自由なく育てることが出来た。
こんなに仕事ばかりしてきたので
たくさんの得るものがあった。

3年前に退職した主人は
同じ職場に再雇用で更にこの春まで務めた。
そして一昨日完全に退職をした。
自由を手に入れた主人と
新たな生活が繰り広げられることになる。
私達には残された時間が限られてきた事が
ひしひしと感じさせられる。
自然と波に流されながら
行くところまで行くしかないのかな・・・?
神様しか知らない私自身に与えられたこの人生を
悔いのないように生きるのはとても難しいが
懸命に丁寧に進むしかない。

私は 果たさなければならない兄との約束がある。
実家には父が大切にしていた
「牛島満」氏の写真がある。

Posted by パールじゅんこ at 01:25│Comments(0)