
2018年07月03日
人生の節目 主人の退職
春が過ぎて行こうとしていた頃
私は相変わらず
週一の休みも取れず
あくせく働いていた。

九十九島の海岸では
清楚なトベラの花が盛りだった。

退職をし
有り余る自由な時間を手に入れた主人を
巻き込んで
二人分のお弁当を作り
二人で私の職場に通っていた。
兄の忌明け供養が行われたのは
混雑を避けたゴールデンウイークの
一週間前の日曜日だった。
里帰りの少し前に仕事の合間に
午後11時に北九州小倉を出港
翌朝早朝5時に愛媛県松山に着く
松山フェリーに電話予約をしていた。
供養前日の土曜日も夕方まで
職場を離れるわけにはいかなかった。
釣りのお客様の多い日曜日の準備に
頭を働かせるのが精いっぱいで
仕事以外の事に気を配る余裕がなかった。
四国に向かうフェリーに乗るため
残った仕事を
娘のみいや孫のHAYATOに頼み
主人と共に
午後5時に職場からまっすぐ
フェリー乗り場である北九州へと向かった。
福岡を過ぎたサービルエリアで小休憩をし
車中で食べるためにおにぎりとパンを買った。
これが今夜の晩御飯である。
予定通り
長崎県最西端の佐世保市鹿町町から
約4時間で北九州小倉港に到着した。
午後9時過ぎであった。
出港まで2時間ありホッとした。

深く考えることも無く
忙しい仕事の合間に「 洋室二人部屋 」と
予約していた松山フェリーに乗船し
部屋に入り・・・・
驚いたのである。
フロントでキーを受け取り
部屋の番号を探しながら
明るい廊下を進んで行った。
すると
その部屋は
入口からいちばん遠い場所にあった。
部屋に入りカーテンを開けると
不思議な光景が眼下に広がっていた。
一瞬戸惑いを覚えた。

私はガラス越しに身を乗り出して見下ろした。
どう考えても・・・
フェリーの一番前の部屋に間違いなかった。

私は主人と共に
船内の案内図に目を通した。
私が
単純に「二人部屋」と予約していたのは
このフェリーに
たった2部屋しかない「 特等A 」の部屋だった。

仕事の合間にあたふたと予約したのは
こんな良い部屋だったのである。
私はとんだ贅沢をしてしまっていたのであった。
身分不相応と感じたが・・・
ちゃっかりと 嬉しかった。

部屋には シャワーが備わっていたが
ゆったりと湯船に浸かりたかったので
部屋を出て
浴場に向かった。
2~3人しか使えないこじんまりとした風呂に
お湯がふんだんに張られ
私一人が貸切で使えた。
何とも気持がよかった。
その日の早朝5時出勤し
夕方5時まで働いていた私は
のんびりと湯船につかり
究極の贅沢を味わっていた。
主人も一人で貸切の男湯に入った。
私の仕事を手伝い
九州の西の端から
4時間かけて運転してきた疲れがとれたようであった。
自動販売機でビールを買い
部屋に戻ってきた。
私はちゃっかりと主人を労った。
「 おとうさん
長い間のお勤めご苦労様でした。
これを退職祝いの旅行にしようね 」 と
いつものように
大きな声で屈託なく笑った主人と
酎ハイと缶ビールで乾杯した。
素敵なレストランでのデイナーよりは
数段私達に似合っていた。
退職記念の
旅には出かける事が出来なかったが
この道中を
記念旅行へとすり替えたのである。
私は何回も窓のカーテンを開けて
デッキを眺めた。
がむしゃらに働いてきた。
人生もまんざらでもないかな・・・
なんて
ちょっとばかりの贅沢に酔いしれていた。

ベットはカーテンで仕切られていて
ぐっすりと眠ることが出来た。

4月22日 日曜日午前4時50分
フェリーは愛媛県松山観光港へと入港した。


午前5時 到着

午前5時 フェリーを降り
松山自動車道で徳島へと向かった。
6時前 日が昇り始め
清々しい綺麗な朝が訪れた。

松山自動車道~高松自動車道~
徳島~阿南経由
実家がある海陽町に11時前に到着
午前11時の供養にどうにか間に合った。

兄は 祖父母や父や母と共に
防風林をつとめる松林に囲まれた墓地を
終の棲家とした。

「大里松原」に寄せては返す波の音が
墓地一帯を包み込み
地球の鼓動を肌で感じることができ
安らぎを覚えた。


大好きだったおばあちゃんや
覚えていないおじいちゃん
大切に育ててくれた両親
いつまでも可愛がってくれた長兄
たくさんのかけがえのないご先祖様が
優しい風となって
集まった私達を包んだ春の一日だった。
両親から大切にされていた兄は
全てのご先祖様から大歓迎を受け
私達とは違う世界で幸せでいるように感じられた。

足元に小さな花園が広がっていた。
「 博 」に「さん」をつけて呼んで
兄を大切にしていた母が笑っているように思えた。
「 ひろっさん よう来たな・・・ 」って

長兄の供養を済ませ
親族に
初盆での再会を約束して九州へと帰ることにした。
道中を
秘境「祖谷」で少し道草しながら。

愛媛県八幡浜港に到着すると
2時間ほど待って乗船する予定だった
宇和島運輸フェリーと同じ港で
九四オレンジフェリーの乗船が開始されていた。
八幡浜~別府の宇和島運輸フェリーに対して
八幡浜~臼杵までの九四オレンジフェリーである。
九四オレンジフェリー

私達は
とっさに 地図を調べた。
臼杵に到着すると
東九州自動車道の臼杵ICが近いことが解ったので
急きょ 目の前で乗船が開始されている
九四オレンジフェリーに乗ることにした。

九四オレンジフェリーには初乗船であった。
駐車場から 客室まで
エスカレーターが設置されていたのには
驚いた。

ロビーは
明るくとても爽やかだった。

2等客室は
狭いスペースで仕切られていて
とっても居心地がよく
ひとねむりが出来た。

トイレは 驚くほど綺麗だった。
今まで利用したどのフェリーのトイレよりも
豪華なものだった。

客室は静かで
エンジン音がしなかった理由がわかった。

約2時間30分の船旅は快適だった。
ゆっくりとひと眠りをして九州 臼杵に到着。


臼杵港を後に 帰路についた。
午後9時過ぎ
MAHAYAが待つ自宅に到着した。
長崎県佐世保市鹿町町~福岡経由~
北九州小倉港
愛媛県松山港~徳島~海陽町

海陽町~徳島~三好・祖谷~愛媛八幡浜港

大分臼港杵~別府経由~自宅着

この2日間の道中を
主人の退職記念の旅にすり替えて
少しばかりの贅沢な旅が終わった。

ちゃっかりものの私をみて
兄が主人に頭を下げているように感じられた。
「 ほんまに 純子は我儘で
自分のしたいように好き勝手に生きる奴やなぁ。
すまんなぁ・・ TOSIOくん。 」
亡き兄が
優しい風となって
私達の行く先を見守っていてくれるように思われた。
今まで以上に
兄が近くにいるように思えるのである。
たくさんのご先祖様が見守ってくれているように
感じられるのであった。
「なんじゃもんじゃ」の花が満開となり
小学6年となったHAYATOの鯉のぼりが
薫風の中で気持ちよさそうに泳いだ春真っ盛りの
出来事だった。

私達の人生は
主人の退職という節目を迎えて
次のステップへと進んだのである。
私は相変わらず
週一の休みも取れず
あくせく働いていた。

九十九島の海岸では
清楚なトベラの花が盛りだった。

退職をし
有り余る自由な時間を手に入れた主人を
巻き込んで
二人分のお弁当を作り
二人で私の職場に通っていた。
兄の忌明け供養が行われたのは
混雑を避けたゴールデンウイークの
一週間前の日曜日だった。
里帰りの少し前に仕事の合間に
午後11時に北九州小倉を出港
翌朝早朝5時に愛媛県松山に着く
松山フェリーに電話予約をしていた。
供養前日の土曜日も夕方まで
職場を離れるわけにはいかなかった。
釣りのお客様の多い日曜日の準備に
頭を働かせるのが精いっぱいで
仕事以外の事に気を配る余裕がなかった。
四国に向かうフェリーに乗るため
残った仕事を
娘のみいや孫のHAYATOに頼み
主人と共に
午後5時に職場からまっすぐ
フェリー乗り場である北九州へと向かった。
福岡を過ぎたサービルエリアで小休憩をし
車中で食べるためにおにぎりとパンを買った。
これが今夜の晩御飯である。
予定通り
長崎県最西端の佐世保市鹿町町から
約4時間で北九州小倉港に到着した。
午後9時過ぎであった。
出港まで2時間ありホッとした。

深く考えることも無く
忙しい仕事の合間に「 洋室二人部屋 」と
予約していた松山フェリーに乗船し
部屋に入り・・・・
驚いたのである。
フロントでキーを受け取り
部屋の番号を探しながら
明るい廊下を進んで行った。
すると
その部屋は
入口からいちばん遠い場所にあった。
部屋に入りカーテンを開けると
不思議な光景が眼下に広がっていた。
一瞬戸惑いを覚えた。

私はガラス越しに身を乗り出して見下ろした。
どう考えても・・・
フェリーの一番前の部屋に間違いなかった。

私は主人と共に
船内の案内図に目を通した。
私が
単純に「二人部屋」と予約していたのは
このフェリーに
たった2部屋しかない「 特等A 」の部屋だった。

仕事の合間にあたふたと予約したのは
こんな良い部屋だったのである。
私はとんだ贅沢をしてしまっていたのであった。
身分不相応と感じたが・・・
ちゃっかりと 嬉しかった。

部屋には シャワーが備わっていたが
ゆったりと湯船に浸かりたかったので
部屋を出て
浴場に向かった。
2~3人しか使えないこじんまりとした風呂に
お湯がふんだんに張られ
私一人が貸切で使えた。
何とも気持がよかった。
その日の早朝5時出勤し
夕方5時まで働いていた私は
のんびりと湯船につかり
究極の贅沢を味わっていた。
主人も一人で貸切の男湯に入った。
私の仕事を手伝い
九州の西の端から
4時間かけて運転してきた疲れがとれたようであった。
自動販売機でビールを買い
部屋に戻ってきた。

私はちゃっかりと主人を労った。
「 おとうさん
長い間のお勤めご苦労様でした。
これを退職祝いの旅行にしようね 」 と
いつものように
大きな声で屈託なく笑った主人と
酎ハイと缶ビールで乾杯した。
素敵なレストランでのデイナーよりは
数段私達に似合っていた。
退職記念の
旅には出かける事が出来なかったが
この道中を
記念旅行へとすり替えたのである。
私は何回も窓のカーテンを開けて
デッキを眺めた。
がむしゃらに働いてきた。
人生もまんざらでもないかな・・・
なんて
ちょっとばかりの贅沢に酔いしれていた。

ベットはカーテンで仕切られていて
ぐっすりと眠ることが出来た。

4月22日 日曜日午前4時50分
フェリーは愛媛県松山観光港へと入港した。


午前5時 到着

午前5時 フェリーを降り
松山自動車道で徳島へと向かった。
6時前 日が昇り始め
清々しい綺麗な朝が訪れた。

松山自動車道~高松自動車道~
徳島~阿南経由
実家がある海陽町に11時前に到着
午前11時の供養にどうにか間に合った。

兄は 祖父母や父や母と共に
防風林をつとめる松林に囲まれた墓地を
終の棲家とした。

「大里松原」に寄せては返す波の音が
墓地一帯を包み込み
地球の鼓動を肌で感じることができ
安らぎを覚えた。


大好きだったおばあちゃんや
覚えていないおじいちゃん
大切に育ててくれた両親
いつまでも可愛がってくれた長兄
たくさんのかけがえのないご先祖様が
優しい風となって
集まった私達を包んだ春の一日だった。
両親から大切にされていた兄は
全てのご先祖様から大歓迎を受け
私達とは違う世界で幸せでいるように感じられた。

足元に小さな花園が広がっていた。
「 博 」に「さん」をつけて呼んで
兄を大切にしていた母が笑っているように思えた。
「 ひろっさん よう来たな・・・ 」って

長兄の供養を済ませ
親族に
初盆での再会を約束して九州へと帰ることにした。
道中を
秘境「祖谷」で少し道草しながら。

愛媛県八幡浜港に到着すると
2時間ほど待って乗船する予定だった
宇和島運輸フェリーと同じ港で
九四オレンジフェリーの乗船が開始されていた。
八幡浜~別府の宇和島運輸フェリーに対して
八幡浜~臼杵までの九四オレンジフェリーである。
九四オレンジフェリー

私達は
とっさに 地図を調べた。
臼杵に到着すると
東九州自動車道の臼杵ICが近いことが解ったので
急きょ 目の前で乗船が開始されている
九四オレンジフェリーに乗ることにした。

九四オレンジフェリーには初乗船であった。
駐車場から 客室まで
エスカレーターが設置されていたのには
驚いた。

ロビーは
明るくとても爽やかだった。

2等客室は
狭いスペースで仕切られていて
とっても居心地がよく
ひとねむりが出来た。

トイレは 驚くほど綺麗だった。
今まで利用したどのフェリーのトイレよりも
豪華なものだった。

客室は静かで
エンジン音がしなかった理由がわかった。

約2時間30分の船旅は快適だった。
ゆっくりとひと眠りをして九州 臼杵に到着。


臼杵港を後に 帰路についた。
午後9時過ぎ
MAHAYAが待つ自宅に到着した。
長崎県佐世保市鹿町町~福岡経由~
北九州小倉港


愛媛県松山港~徳島~海陽町


海陽町~徳島~三好・祖谷~愛媛八幡浜港


大分臼港杵~別府経由~自宅着


この2日間の道中を
主人の退職記念の旅にすり替えて
少しばかりの贅沢な旅が終わった。

ちゃっかりものの私をみて
兄が主人に頭を下げているように感じられた。
「 ほんまに 純子は我儘で
自分のしたいように好き勝手に生きる奴やなぁ。
すまんなぁ・・ TOSIOくん。 」
亡き兄が
優しい風となって
私達の行く先を見守っていてくれるように思われた。

今まで以上に
兄が近くにいるように思えるのである。
たくさんのご先祖様が見守ってくれているように
感じられるのであった。
「なんじゃもんじゃ」の花が満開となり
小学6年となったHAYATOの鯉のぼりが
薫風の中で気持ちよさそうに泳いだ春真っ盛りの
出来事だった。

私達の人生は
主人の退職という節目を迎えて
次のステップへと進んだのである。
Posted by パールじゅんこ at 17:37│Comments(0)