
2018年09月19日
里帰り 長兄の初盆
8月12日
仕事を終わらせ 北九州からフェリーに乗り
四国徳島の実家へと向かった。
午後11時出港の北九州小倉を出航したフェリーは
翌朝5時に愛媛県松山に到着した。
阿波踊りの渋滞を考え高松~徳島市内を通るルートを避けて
松山~高知~室戸岬 経由で
徳島海陽町の実家に向かった。
今年の春に他界した兄の初盆参りの為に
里帰りをしたのだった。
HAYATOは
徳島の秘境である海部川の上流の相川での鮎釣りを
楽しみにしていたのである。
父や兄たちの得意だった鮎突きを
HAYATOに教えてくれる人は
もういなかった。
懐かしい故郷で
父にも
母にも
二人の兄にも
二度と会うことは出来なくなった。
しかし
決して変わることのない故郷の山や川は
例えようのない温もりで
私達を包み込んでくれたのであった。
川のせせらぎや木の葉を揺する風から
父や 二人の兄の気配が感じ取れた。
一緒にいるような安心感が
胸に押し寄せてきたのであった。
鮎を獲りに来ている地元の方についていって
HAYATOは熱心に観察をした。
鮎のいる場所を見つけたのであった。
まさか 鮎をすくうなんて・・・
「すくう」なんて知らなかった。
鮎は
竿で釣るか
ホコで突くものとしか知識がなかったのである。
その翌日
地元の釣具屋さんで道具を買って
「 鮎すくい 」に挑戦してみることにした。
タモは鮎すくい専用のもので
驚くほど高価だった。
7,000円からおつりが少しだけ戻った。
さっと機敏にすくえるようにアルミで出来ていた。
網は極細で鮎の目に留まらないなものだった。
余りにも高価だったので
主人には金額を内緒でこっそりと支払いを済ませた。
鮎の動きを追うためにサングラスが必要である。
主人は
山でタモの柄と鮎を追い出す木の枝を調達した。
完璧にスタンバイ OKである。
父や二人の兄が目を細めて
はやとを見つめているように感じた。
「オラが生きとったら
はやとに鮎の突き方を教えてやったのになぁ。
すくうより よっぽど面白いぞ!」
三人の残念そうな声が聞こえてきた・・・
木々の中から。
兄たちが鮎を突いて獲っていた場所である。
常に私や姉は
川岸を兄たちについて回っていたのであった。
不思議な感じがした。
私はいつかこの命が終わった時
魂というものが実在するなら
父や母や兄達がいるこの場所に戻ってきたい
と思ってしまった。
幼いころに育った故郷に戻ってきたい・・・
そう思った。
主人やHAYATOには内緒で。
義姉の実家を訪ねて
義姉のお兄さんの指導でそばの川で鮎を釣って遊んだ。
義姉の優しい計らいであった。
私が育った場所ではないが
HAYATOは田舎暮しを楽しんだ。
義姉の実家では
家に沿って小さな小さな小川が流れていて
天然のワサビが生い茂っていた。
HAYATOは鮎を捌いた。
塩水につけて冷凍すると色が変わらないよ。と
義姉の年老いたお母さんがHAYATOに教えてくれた。
たくさんの鮎を焼いてごちそうしてくれたのである。
柚子を採り・・
鮎をご馳走になり・・
主人は義姉のお兄さんと
アユの塩焼きを肴に酒を飲み
ず~~~と親しくしていたかのように話が弾んだ。
あたたかい時間が流れて行った。
私達は血縁関係を持たない義姉の実家で
暖かい心のこもったおもてなしを受けた。
私はその懐かしく思える温もりが嬉しくて
そして
悲しかった。
私は 私の
父にも 母にも会いたかった。
兄たちに成長したHAYATOを会わせたかった。
父や兄たちがHAYATOと共に獲った鮎を
母に焼いてもらって
姉と共に食卓を囲みたかった。
義姉のお母さんやお兄さんが
家族を迎えてくれるかのように
私達を暖かく迎え接してくれたその時間は
私の心の中で素敵な宝物になったのである。
兄の初盆供養を終え
高知室戸岬経由で九州へと帰った。
8月16日
台風が九州北部を北上中だった。
愛媛八幡浜~大分別府へのフェリーに乗る予定を
断念した。
どちらに転んでも良いように
愛媛県今治市のホテルに泊まっていたので
愛媛と広島を結ぶ「しまなみ街道」を通るルートで
九州へと帰ることにした。
再び平凡で多忙な日常が戻ってきた。
現実に戻った私から感傷的な気持ちが遠のいていった。
だが
父や母や 二人の兄たちが
いつも傍に寄り添ってくれていると
感じられるのである。