
2011年01月14日
方丈記より №2
方丈記(現代語訳付き)読み進めていく。
時間の許される限り
小刻みに
バックから文庫本を取り出して
「方丈記」の世界にのめり込む。
自分の生きざまに照らし合わせ
納得したり
共鳴したり・・・。
<三>
知らず、生まれ死ぬる人、
何方より来たりて、
何方へか去る。
また、知らず、仮の宿り、
誰が為にか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主とすみかと、無常を争うさま、
いはば朝顔の露に異ならず。
<三の現代語訳>
無常なこの世の仮住まいである家をもって
誰のためにあれこれと心労し、
何をしようとて、
目をたのしませるだけのことをするのだろうか。
私も主人とともに 懸命に働き、
身の丈に合った 小さな家を建てたのは
平成7年のことである。
娘達を嫁がせるとき、
見送りたい住まいを 持っていたかったから・・・。
ただ その思いで 手にした家屋である。
それぞれの部屋に
さんさんと 陽光が射し込み
いずれ私達夫婦から巣立っていくはずの娘たちと
共有する時が陽光のように
ほんわりと、優しいものであることを
心底 熱望して 手に入れた家屋である。
<二十四>
すべて、世の中のありにくく、
わが身とすみかとの、
はかなく、
あだなるさま、また、かくのごとし。
いはんや、
所により、
身のほどにしたがひつつ、
心を悩ます事は、
あげてかぞふべからず。
どうして
鴨長明は これほどまでも、
すみかに対して排他的な考えなんだろうか?
私は手に入れた家屋で
娘たちは
幸せな子供時代を過ごしたと
信じたい。
しかし
大人になり
子の親となった娘たちの口からでた言葉は・・・。
「お母さんの理想を押し付けられて、育てられた」
なんだ? これは・・・・。
私が 頑張って生きてきたのは
いったいなんなんだろうか?
そうしてみると
鴨長明の「すみか説」が
たよりにならないのは
ご最もなのかな?
雪の日の朝
大人になった娘たちは
玄関の前に
大きな雪だるまを作った!

玄関のふくろうくんは
娘たちを迎え
娘たちを見送り
決して変わることなく
365日
家族を見守ってきた。

家を持つことは
まんざらでもないと
私は 思う。
家(すみか)は
風雪とともに
私とともに
家族を見守っている様に
信じている。
すみかにかけた愛情は
決して
「はかなく、あだなるさま」ではない様な
気がするのである。
時間の許される限り
小刻みに
バックから文庫本を取り出して
「方丈記」の世界にのめり込む。
自分の生きざまに照らし合わせ
納得したり
共鳴したり・・・。
<三>
知らず、生まれ死ぬる人、
何方より来たりて、
何方へか去る。
また、知らず、仮の宿り、
誰が為にか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主とすみかと、無常を争うさま、
いはば朝顔の露に異ならず。
<三の現代語訳>
無常なこの世の仮住まいである家をもって
誰のためにあれこれと心労し、
何をしようとて、
目をたのしませるだけのことをするのだろうか。
私も主人とともに 懸命に働き、
身の丈に合った 小さな家を建てたのは
平成7年のことである。
娘達を嫁がせるとき、
見送りたい住まいを 持っていたかったから・・・。
ただ その思いで 手にした家屋である。
それぞれの部屋に
さんさんと 陽光が射し込み
いずれ私達夫婦から巣立っていくはずの娘たちと
共有する時が陽光のように
ほんわりと、優しいものであることを
心底 熱望して 手に入れた家屋である。
<二十四>
すべて、世の中のありにくく、
わが身とすみかとの、
はかなく、
あだなるさま、また、かくのごとし。
いはんや、
所により、
身のほどにしたがひつつ、
心を悩ます事は、
あげてかぞふべからず。
どうして
鴨長明は これほどまでも、
すみかに対して排他的な考えなんだろうか?
私は手に入れた家屋で
娘たちは
幸せな子供時代を過ごしたと
信じたい。
しかし
大人になり
子の親となった娘たちの口からでた言葉は・・・。
「お母さんの理想を押し付けられて、育てられた」
なんだ? これは・・・・。
私が 頑張って生きてきたのは
いったいなんなんだろうか?
そうしてみると
鴨長明の「すみか説」が
たよりにならないのは
ご最もなのかな?
雪の日の朝
大人になった娘たちは
玄関の前に
大きな雪だるまを作った!

玄関のふくろうくんは
娘たちを迎え
娘たちを見送り
決して変わることなく
365日
家族を見守ってきた。

家を持つことは
まんざらでもないと
私は 思う。
家(すみか)は
風雪とともに
私とともに
家族を見守っている様に
信じている。
すみかにかけた愛情は
決して
「はかなく、あだなるさま」ではない様な
気がするのである。
Posted by パールじゅんこ at 00:43│Comments(0)