
2011年12月30日
摂食障害の娘へ 退院の運び
勤務中の私のスマホがなった。
私はひとときもスマホを手放せなかった。
仕事中も
入浴中も
常に気にかけていた。
私はあわてて電話をとった。
いつも・・・悪い知らせではと考える。
「先生がお話があるので明日午後病院においでてください。」
病棟の看護師さんからの電話だった。
この田舎町で娘のような患者はおそらく他にいないだろう。
徳田先生も
看護師さんたちも娘のような患者は
初めて接しているだろうと思う。
12月29日(木)
ジャンバーがいらないような暖かい午後
病院に向かった。
長年勤めている職場は
家族同然で非常に暖かい気配りをもらえ
何の遠慮もなく娘のために時間をとることが出来る。
私は
午後1時30分約束の時間に病院に到着した。
徳田先生は
午前中の診察がまだ終わっていない。
娘の暖かい部屋で待つこと30分。
徳田先生は
いつものようにメモを取りながら
娘の症状、状態を克明に記しながら
素人にもよくわかるように熱心に説明をしてくれる。
私は
最後にいつも頂けるメモに目を向けながら
聞きなれない病名だが 安心して耳を傾けている。
※ 「 500gの輸血によって
ヘモグロビンを補いました。
500g 2本の血小板輸血によって
血小板を補いました。
抗生物質
栄養補給の点滴によって
どうにか命の危機状態は免れました。」
※ 「 娘さんの生命力の強さには驚かさせます。
血液の問題は輸血によって解消されました。
しかし
私にも
理解できなことが起こりました。
こんな
危篤状態の中で
7月から診てきている肝機能の障害が改善されました。
※ 7月から500~600の数値だったのが
長崎医療センター入院中は1000まで跳ね上がり
又
今回の入院当初にも500~600の測定値だったのが
今日の測定では17と
正常値の枠の中に入りました。
抗生物質の投与でおさまるとは考えられません。
正直
何が原因で改善されたのか分かりません。
お母さんがおっしゃる
ストレスが
直接 ここまでもに肝機能障害の数値に影響するとは
ぼくの経験上 考えられません。
しかし
改善されたのは確かです。 」
※ 「 一時は
気が気じゃなかったですね。
本人は他人事のように笑っていましたが・・・。 」
※ 「 火曜日から 点滴をやめてみました。
全ての検査数値が非常に落ち着いています。
お正月を控え
ご家族の受け入れ対策が出来ているようでしたら
明日にでも
退院は可能です。」
私は先生の治療と 熱意と 素直さに
頭が下がる思いでいっぱいになった。
もちろん
暖かい病室から
寒い我が家に連れて帰るのは非常に心配だが
明日の午後迎えに来る旨
即座に先生に伝えた。
私は
婿との離婚が決定した事によって
娘の肝機能に
何らかの改善がなされたのだろうと信じている。
婿との離婚によって
娘は
又 我が家の家族の一員となる。
これはどういうことを意味しているのか
今の私にはわからない。
31歳の娘は
母親である私から離れることが出来なったのだろうか?
31歳の娘は
婿との生活よりも
大好きな父親のいる
居心地のいい我が家に帰ってきたかったのだろうか?
そんな問題など隠れていなくて
実際に
単純に
婿との生活が困難だっただけだろうか?
これから先
娘の体力の改善を待って
娘の摂食障害を治療をしていかなければいけないが
どうやればいいのか・・・・。
正直まったく自信がない。
明日午後娘は我が家に帰ってくる。
帰るなり
寒空の下 散歩に出かけるんではなかろうか・・・。
帰るなり
歩いて10分弱(約1㎞ちょっと)の自宅に向かうんでは・・・?
すぐ
風邪をひいて病院にとんぼ返りではなかろうか。
どこかで転んで
救急車で運ばれる始末になるのではなかろうか。
とりあえず
1月初めのうちに 離婚届にサインをするよう
二人の間では話が進んでいるようである。
信じられないようなことだが
危篤状態を告げられていて
血小板輸血を繰り返している枕元で
離婚を言い出した婿。
それにに応じて
着々と話を進めていった娘。
二人の神経にはあきれる。
婿の人間性を疑うが
死のがけっぷちに立たされても他人事のように
離婚について考えを練っていた娘も娘のような気がする。
心配して
精神安定剤を服用していたのは私だけだろう。
なんだか
無性に腹が立ってくる。
私は
年を重ねるだけで 人間として成長できていないのが
よくわかる。
又 主人のアドバイスを呪文のように唱える。
「 お前が悪いんじゃない!
いろんなことが出来わいて当然
人生谷あり 山あり 」
12月30日(金)娘は退院してくる。
夕方5時 30日の天気が予報される。
曇り 昼ごろ 一時雨
私はひとときもスマホを手放せなかった。
仕事中も
入浴中も
常に気にかけていた。
私はあわてて電話をとった。
いつも・・・悪い知らせではと考える。
「先生がお話があるので明日午後病院においでてください。」
病棟の看護師さんからの電話だった。
この田舎町で娘のような患者はおそらく他にいないだろう。
徳田先生も
看護師さんたちも娘のような患者は
初めて接しているだろうと思う。
12月29日(木)
ジャンバーがいらないような暖かい午後
病院に向かった。
長年勤めている職場は
家族同然で非常に暖かい気配りをもらえ
何の遠慮もなく娘のために時間をとることが出来る。
私は
午後1時30分約束の時間に病院に到着した。
徳田先生は
午前中の診察がまだ終わっていない。
娘の暖かい部屋で待つこと30分。
徳田先生は
いつものようにメモを取りながら
娘の症状、状態を克明に記しながら
素人にもよくわかるように熱心に説明をしてくれる。
私は
最後にいつも頂けるメモに目を向けながら
聞きなれない病名だが 安心して耳を傾けている。
※ 「 500gの輸血によって
ヘモグロビンを補いました。
500g 2本の血小板輸血によって
血小板を補いました。
抗生物質
栄養補給の点滴によって
どうにか命の危機状態は免れました。」
※ 「 娘さんの生命力の強さには驚かさせます。
血液の問題は輸血によって解消されました。
しかし
私にも
理解できなことが起こりました。
こんな
危篤状態の中で
7月から診てきている肝機能の障害が改善されました。
※ 7月から500~600の数値だったのが
長崎医療センター入院中は1000まで跳ね上がり
又
今回の入院当初にも500~600の測定値だったのが
今日の測定では17と
正常値の枠の中に入りました。
抗生物質の投与でおさまるとは考えられません。
正直
何が原因で改善されたのか分かりません。
お母さんがおっしゃる
ストレスが
直接 ここまでもに肝機能障害の数値に影響するとは
ぼくの経験上 考えられません。
しかし
改善されたのは確かです。 」
※ 「 一時は
気が気じゃなかったですね。
本人は他人事のように笑っていましたが・・・。 」
※ 「 火曜日から 点滴をやめてみました。
全ての検査数値が非常に落ち着いています。
お正月を控え
ご家族の受け入れ対策が出来ているようでしたら
明日にでも
退院は可能です。」
私は先生の治療と 熱意と 素直さに
頭が下がる思いでいっぱいになった。
もちろん
暖かい病室から
寒い我が家に連れて帰るのは非常に心配だが
明日の午後迎えに来る旨
即座に先生に伝えた。
私は
婿との離婚が決定した事によって
娘の肝機能に
何らかの改善がなされたのだろうと信じている。
婿との離婚によって
娘は
又 我が家の家族の一員となる。
これはどういうことを意味しているのか
今の私にはわからない。
31歳の娘は
母親である私から離れることが出来なったのだろうか?
31歳の娘は
婿との生活よりも
大好きな父親のいる
居心地のいい我が家に帰ってきたかったのだろうか?
そんな問題など隠れていなくて
実際に
単純に
婿との生活が困難だっただけだろうか?
これから先
娘の体力の改善を待って
娘の摂食障害を治療をしていかなければいけないが
どうやればいいのか・・・・。
正直まったく自信がない。
明日午後娘は我が家に帰ってくる。
帰るなり
寒空の下 散歩に出かけるんではなかろうか・・・。
帰るなり
歩いて10分弱(約1㎞ちょっと)の自宅に向かうんでは・・・?
すぐ
風邪をひいて病院にとんぼ返りではなかろうか。
どこかで転んで
救急車で運ばれる始末になるのではなかろうか。
とりあえず
1月初めのうちに 離婚届にサインをするよう
二人の間では話が進んでいるようである。
信じられないようなことだが
危篤状態を告げられていて
血小板輸血を繰り返している枕元で
離婚を言い出した婿。
それにに応じて
着々と話を進めていった娘。
二人の神経にはあきれる。
婿の人間性を疑うが
死のがけっぷちに立たされても他人事のように
離婚について考えを練っていた娘も娘のような気がする。
心配して
精神安定剤を服用していたのは私だけだろう。
なんだか
無性に腹が立ってくる。
私は
年を重ねるだけで 人間として成長できていないのが
よくわかる。
又 主人のアドバイスを呪文のように唱える。
「 お前が悪いんじゃない!
いろんなことが出来わいて当然
人生谷あり 山あり 」
12月30日(金)娘は退院してくる。
夕方5時 30日の天気が予報される。
曇り 昼ごろ 一時雨
Posted by パールじゅんこ at 03:00│Comments(0)