てぃーだブログ › 浮雲 › 折衝障害の娘へ セルフケア

2012年02月26日

折衝障害の娘へ セルフケア

平成24年2月25日
私は56歳を迎えた。

56年前
徳島県の深い山村で私は産声を上げた。
こんな寒い日に。

信じられないことだったが
母は一人で私を生んだ。
みいが生まれるときお産介抱に
四国から九州の私の家にやってきていた時の
母との会話を私は鮮明に覚えている。

間もなく陣痛のやってくる大きなおなかを抱えて
住宅の暖かい部屋で
母とお茶を飲んだ。
2歳3か月の長女が
母の膝に抱かれていたような気がする。


「お母さんが赤ちゃんとりあげてやってもええけど・・

 後の書類の手続きがでけんな」あ・・。」

母は自らの手で
私のおなかの赤ちゃんを
自分の家で自分の手で誘導して
私にお産をさせることに自信があったみたいである。

私は
母の若いころの話を聞くのが好きな娘だった。
 雨が降る日
 寒さが厳しい日
母は家の中にいた。
それ以外はいつも鍬を持ち田畑に、
お風呂の薪を切るためにのこぎりを手に、
畑で採れた野菜を洗うために横の川に、
いつも動きを止めることは無かった。

節の大きくなった手で
お茶を飲みながら
話してくれる若いころの話は
きらきら輝いて私の空想の世界に広がりを持たせた。

第二次世界大戦が終盤戦を迎えた時
大阪の街から 一人大きな風呂敷包みを持って
四国徳島県(阿波の国)に疎開を強いられた
青春時代の母の話は尽きることが無かった。

私は
座卓の上に鏡を置き
ニキビをつぶしながら母の話に夢中になった。

大阪の中心地で
おおきな薬問屋で奉公をしていた若し頃の母は
神戸 宝塚劇団が好きだった母は
休みには神戸に足を運び
観劇を楽しんだことを、
宝塚の華やかさを、よく話して聞かせた。


長崎に
広島に
原爆を投下して終戦を迎えた第二次世界大戦は
一人の娘の運命を変えた。

華やかな都会から
驚くような田舎へと暮らしを変えた母は
戦地から帰ってきた父と所帯を持ち
5人の子供を産み
4人の子供を育て上げた。

産婆さんが間に合わないような
深い山村で暮らした母は
自分の手で
自分の子供をとりあげる術を身に着けたようである。

母は私達子供に
多くの本を与えた。

私達兄弟の元には
常に数冊の月刊誌が届いていた。
ごく普通の平凡な家族の我が家には
母の思いが詰まった本にうずまれていた。

沢山のマンガ本は友達に貸した後
塗り絵をして楽しみ
その後は切り絵となった。
小学館の月刊誌は
私を知らない世界、国への想像をかき立てた。
沢山の童話を読み聞かせてもらいながら
眠りについた母との思い出は尽きない。

私は
  「ミツバチマーヤの冒険」を読み
  月光の光に魅せられて
  お月様の輝く秋の夜の庭に出て
  夜が更けるのも忘れ月光に輝く草木を眺めては
  母に叱られ家の中に連れ戻されたり・・・。
  「二十四の瞳」の世界にはまり込み
  大石先生のお見舞いに行く子供たちの真似をして
  近所の年下の子供たちを引き連れ
  丘の向こうの同級生の家に遊びに行き
  帰ってくるのがどっぷり日が暮れてしまい
  暗くなった夜道を迎えにきた父から
  こっぴどく叱られたり・・・。
母の与えた様々な本は
頭脳明晰とはほど遠い私の変な個性を作り上げた。


私は
 苦しいとき
 現実の世界から逃避したいとき
 さまざまな本を読み
 その世界の中で心の旅をするのが大好きである。

「古事記物語」の世界の中に逃避している
今の私は

     高千穂へ・・・
     出雲へ ・・・
     天橋立へ・・・

旅を続ける。
頭脳明晰とはほど遠い私の脳は
沢山の神々の名前の前で
整理がつかなくなりながら
頭の中がぐちゃぐちゃになりながら
悠久の歴史を旅している。












Posted by パールじゅんこ at 07:44│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 15人
プロフィール
パールじゅんこ
パールじゅんこ
えっちら おっちらと進む人生。
苦しいことも乗り越えたはず。
悲しいことも通り過ぎたはず。
やってくる明日は
絶対幸せで楽しいはずと
100%信じている私こと じゅんこです。


オーナーへメッセージ