
2012年04月19日
摂食障害の娘と共に 出発点
4月18日(水) 午後12時30分
「 わからない・・・」
HCU病棟 深野部長はつぶやいた。
「 わからない・・・。」
この言葉に聞き覚えがある。
それは最近の記憶の中に・・・。
一週間前
手術の翌朝の4月11日(火)に
深い昏睡状態に陥ってしまった娘は
意識のないままに数々の検査が行われた。
その日の夕方
CT、心臓エコー、腹部エコー、血液検査 などから
強いて言うなら心臓の働きが弱い、
更に強いて言ううなら血糖値が低い。
血が出るほどつねってもピクリともしない娘を囲んで
10名に近いそれぞれの専門医、検査技師が討論を交わした。
左尿路結石の手術は成功している。
「 わからない。 」という言葉が医師の口から出た。
解散した直後
その中の最年長の医師がHCU部長を引き留め、
MRI検査を進めた。
その翌日 4月12日(木)の午後
外来患者の診療後に
娘のMRI検査が行われた。
この検査でも異常は見られなかった。
検査は異常値を表さなかった・・・・と
言った方が正しいように思われた。
私は眠れない夜を3晩過ごした。
そんな私に
主人はつぶやいた。
「 しっかりしろよ。
HAYATOがおるからな。」
主人は私につぶやきながら
自分自身にも言い聞かせていたように感じられた。
主人は私が取り乱して
半狂乱になることに気をもんだ。
私は
支えられた。
「 気持ちを強く持って祈りなさい。」
「 祈っていますよ。」
「 娘さんは大丈夫!」
見知らぬ方からの強い言葉に支えられ
娘の奇跡を祈った。
4月14日(土)
静かに娘は深い深い眠りの底から
抜け出してきた。
言葉を発することを
一番の後回しにして
娘はゆっくり回復を始めた。
4月15日(月) 夕方
娘はHAYATOに満面の笑みを投げかけた。
4月16日(火)
娘は
持っていきようのない苛立ちを・・
悔しさを・・
私にぶつけた。
声にならない声を発して
力のない両腕を振り上げ私を叩こうとした。
何度も何度も・・・。
声にならない声を出して泣き悔しがった。
みいは
なんと言いたいんだろう・・・。
どんなことが胸に充満して
怒りを引き出しているんだろう・・・。
午後から仕事に戻り
再び 夕方
平常生活にもどったHAYATOはスイミングスクールに通い
私は主人と二人で娘を見舞った。
ベットをおこした娘は
看護師からジュース(ポカリスェットだと思われた)をもらっていた。
200ccほどのジュースを一気に飲んだ。
コップの中を覗きながら
ストローの音を立てながら最後まで一気に飲みほした。
ストローを投げ出すと
コップを除きながら直接口につけ
少し残っているジュースを飲みほした。
更に
コップを覗きながら
何回も何回も口に当て飲む動作を繰り返した。
コップには
一滴もジュースが残っていないにも関わらず
娘の喉は
ジュースを飲み込んでいるかのように動いた。
何回も何回も同じ動作を繰り返した後
がっかりしたように
看護師から促されてコップを手放した。
放心状態のような娘は
急に泣き顔になった。
みいは
なんと言いたいんだろうか・・。
何を告げたいんだろうか・・・。
私達夫婦は
HAYATOのスイミングスクールのバスに合わせて
帰りを急いだ。
主人の運転する車の助手席で
穏やかに暮れていこうとする
佐世保相浦の愛宕山の稜線に見とれた。

穏やかな一日の暮れていく様子に見とれながら
又
一抹の不安が沸いてきた。
みいの脳は正常に戻ったのだろうか・・・。
みいは当たり前に戻ってくるだろうか・・・。
私は
一冊の本のひとつの言葉が浮かんできた。
絵馬師 殿村進著書の「絆~ 愛あればこそ」の中の
一小節が・・。
人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
4月18日(水)
朝 独りで元気にみいの病室を訪ねた。
みいは横を向いてテレビを見ていた。
そのテレビは
小さな音が出ていた。
声をかけた私に
瞬時顔を向けた後
みいはテレビの方から目を離さなかった。
しばらくして
両手を上げ
下に振りおろし怒りを表した。
言葉にならない声を発しながら
みいは泣いた。
悔しそうに泣いた。
みいは何を言いたいんだろう・・・。
興奮し心拍数が異常に上がった。
私は
みいの頭を幼子にするようになで
HCUから出た。
しばらくして
病棟にもどった。
間もなく早い昼食が運ばれてきた
おかゆ
八宝菜
ブロッコリーとゆで卵のサラダ
エノキの吸い物
普通に盛られた昼食を
看護師の手を借りて口に運んだ。
すごい勢いで次々飲み込まれ
あっという間に
食べ終わった。
片付けていった看護師の報告を受け
HCU病棟部長医師が
聴診器を首に慌てて娘の元にやってきた。
「 おなか いたくない? 」
「あんまり 急激に食べると 良くないね・・。」
娘の腹に聴診器を当てた。
ベットから離れた医師は数分 私に語った。
「 まさか こんな 量をたべれるなんて・・・・」
誰もが 摂食障害の娘は
目が覚めた後は
その状態が継続するものだと疑っていなかった。
診療内科的な治療を施しながら
高カロリー輸液に頼り
治療を進めていこうとしていた。
驚くほどの食欲は
私達を困惑させた・・・。
「 わからない・・・。 」
医師は首をかしげた。
いつものように
午後は仕事場に戻った。
夕方
主人 HAYATOと病室を訪ねた。
みいは
ベットをおこし夕食を食べていた。
ほとんど食べ終わっていた。
重湯と小さく刻んだおかずを全部食べ終わっていた。
まだ
食べ足らない様子で、
お皿に残った野菜も綺麗にスプーンで寄せ
口に運んだ。
200ccほどのお茶も全部飲みほして
落ち着いた。
言葉はまだ出ないが
「ハイ」という返事だけが何回も口から発せられた。
私は
不思議な感覚に陥った。
脳血栓で倒れたベットの上の義父を思い出した。
記憶も反応も現さなくなったのに
食事だけは食べていたベットでの義母の姿を思い出した。
私は
一抹の不安が胸に押し寄せてきた。
みいの脳は大丈夫なんだろうか・・・?
「 ママー バイバイ 」と別れを告げるHAYATOに
娘は
手を振って答えた。
テレビに見はまったみいの頭を撫で
「 又 明日ね 」と別れを告げた。
人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
「 わからない・・・」
HCU病棟 深野部長はつぶやいた。
「 わからない・・・。」
この言葉に聞き覚えがある。
それは最近の記憶の中に・・・。
一週間前
手術の翌朝の4月11日(火)に
深い昏睡状態に陥ってしまった娘は
意識のないままに数々の検査が行われた。
その日の夕方
CT、心臓エコー、腹部エコー、血液検査 などから
強いて言うなら心臓の働きが弱い、
更に強いて言ううなら血糖値が低い。
血が出るほどつねってもピクリともしない娘を囲んで
10名に近いそれぞれの専門医、検査技師が討論を交わした。
左尿路結石の手術は成功している。
「 わからない。 」という言葉が医師の口から出た。
解散した直後
その中の最年長の医師がHCU部長を引き留め、
MRI検査を進めた。
その翌日 4月12日(木)の午後
外来患者の診療後に
娘のMRI検査が行われた。
この検査でも異常は見られなかった。
検査は異常値を表さなかった・・・・と
言った方が正しいように思われた。
私は眠れない夜を3晩過ごした。
そんな私に
主人はつぶやいた。
「 しっかりしろよ。
HAYATOがおるからな。」
主人は私につぶやきながら
自分自身にも言い聞かせていたように感じられた。
主人は私が取り乱して
半狂乱になることに気をもんだ。
私は
支えられた。
「 気持ちを強く持って祈りなさい。」
「 祈っていますよ。」
「 娘さんは大丈夫!」
見知らぬ方からの強い言葉に支えられ
娘の奇跡を祈った。
4月14日(土)
静かに娘は深い深い眠りの底から
抜け出してきた。
言葉を発することを
一番の後回しにして
娘はゆっくり回復を始めた。
4月15日(月) 夕方
娘はHAYATOに満面の笑みを投げかけた。
4月16日(火)
娘は
持っていきようのない苛立ちを・・
悔しさを・・
私にぶつけた。
声にならない声を発して
力のない両腕を振り上げ私を叩こうとした。
何度も何度も・・・。
声にならない声を出して泣き悔しがった。
みいは
なんと言いたいんだろう・・・。
どんなことが胸に充満して
怒りを引き出しているんだろう・・・。
午後から仕事に戻り
再び 夕方
平常生活にもどったHAYATOはスイミングスクールに通い
私は主人と二人で娘を見舞った。
ベットをおこした娘は
看護師からジュース(ポカリスェットだと思われた)をもらっていた。
200ccほどのジュースを一気に飲んだ。
コップの中を覗きながら
ストローの音を立てながら最後まで一気に飲みほした。
ストローを投げ出すと
コップを除きながら直接口につけ
少し残っているジュースを飲みほした。
更に
コップを覗きながら
何回も何回も口に当て飲む動作を繰り返した。
コップには
一滴もジュースが残っていないにも関わらず
娘の喉は
ジュースを飲み込んでいるかのように動いた。
何回も何回も同じ動作を繰り返した後
がっかりしたように
看護師から促されてコップを手放した。
放心状態のような娘は
急に泣き顔になった。
みいは
なんと言いたいんだろうか・・。
何を告げたいんだろうか・・・。
私達夫婦は
HAYATOのスイミングスクールのバスに合わせて
帰りを急いだ。
主人の運転する車の助手席で
穏やかに暮れていこうとする
佐世保相浦の愛宕山の稜線に見とれた。

穏やかな一日の暮れていく様子に見とれながら
又
一抹の不安が沸いてきた。
みいの脳は正常に戻ったのだろうか・・・。
みいは当たり前に戻ってくるだろうか・・・。
私は
一冊の本のひとつの言葉が浮かんできた。
絵馬師 殿村進著書の「絆~ 愛あればこそ」の中の
一小節が・・。
人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
4月18日(水)
朝 独りで元気にみいの病室を訪ねた。
みいは横を向いてテレビを見ていた。
そのテレビは
小さな音が出ていた。
声をかけた私に
瞬時顔を向けた後
みいはテレビの方から目を離さなかった。
しばらくして
両手を上げ
下に振りおろし怒りを表した。
言葉にならない声を発しながら
みいは泣いた。
悔しそうに泣いた。
みいは何を言いたいんだろう・・・。
興奮し心拍数が異常に上がった。
私は
みいの頭を幼子にするようになで
HCUから出た。
しばらくして
病棟にもどった。
間もなく早い昼食が運ばれてきた
おかゆ
八宝菜
ブロッコリーとゆで卵のサラダ
エノキの吸い物
普通に盛られた昼食を
看護師の手を借りて口に運んだ。
すごい勢いで次々飲み込まれ
あっという間に
食べ終わった。
片付けていった看護師の報告を受け
HCU病棟部長医師が
聴診器を首に慌てて娘の元にやってきた。
「 おなか いたくない? 」
「あんまり 急激に食べると 良くないね・・。」
娘の腹に聴診器を当てた。
ベットから離れた医師は数分 私に語った。
「 まさか こんな 量をたべれるなんて・・・・」
誰もが 摂食障害の娘は
目が覚めた後は
その状態が継続するものだと疑っていなかった。
診療内科的な治療を施しながら
高カロリー輸液に頼り
治療を進めていこうとしていた。
驚くほどの食欲は
私達を困惑させた・・・。
「 わからない・・・。 」
医師は首をかしげた。
いつものように
午後は仕事場に戻った。
夕方
主人 HAYATOと病室を訪ねた。
みいは
ベットをおこし夕食を食べていた。
ほとんど食べ終わっていた。
重湯と小さく刻んだおかずを全部食べ終わっていた。
まだ
食べ足らない様子で、
お皿に残った野菜も綺麗にスプーンで寄せ
口に運んだ。
200ccほどのお茶も全部飲みほして
落ち着いた。
言葉はまだ出ないが
「ハイ」という返事だけが何回も口から発せられた。
私は
不思議な感覚に陥った。
脳血栓で倒れたベットの上の義父を思い出した。
記憶も反応も現さなくなったのに
食事だけは食べていたベットでの義母の姿を思い出した。
私は
一抹の不安が胸に押し寄せてきた。
みいの脳は大丈夫なんだろうか・・・?
「 ママー バイバイ 」と別れを告げるHAYATOに
娘は
手を振って答えた。
テレビに見はまったみいの頭を撫で
「 又 明日ね 」と別れを告げた。
人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
Posted by パールじゅんこ at 09:28│Comments(0)