
2012年04月25日
摂食障害の娘と共に 薫風
主治医は
私と主人をパソコンのデーターの前に導き
首をかしげた。
「 播種性血管内凝固症候群(DIC)を疑う数値が
ぐんぐん高くなっています。
信じられない程の値です。
僕はこの一週間生きた心地がしない。 」
先生
私も 主人も 生きた心地がしない・・・。
私はこの言葉を心の中に押し込めた。
深野先生
私は
この一週間… いいえ
数えきれないほど
娘の生死を目の当たりにして
生きた心地がしない思いを
繰り返してきたことか・・・。
娘を見てくださる多くの医師たちから
「 解らない・・・。 」という
言葉を何度耳にしてきたことか・・・。
娘を見てくださる先生たちは一様に
首をかしげてこられたことか・・・?
娘は筋肉という筋肉を消費させながら
娘は脂肪を削りながら
食物の摂取量と運動によるエネルギーの消費量の
反比例の日々を繰り返しながら
夏を越せないほど肝機能の悪化したまま
昨年の秋を迎え
冬を越し
束の間の春の日差しの中を散歩し
初夏を迎えようとしている。
多くの方に見守られながら
多くの方に祈っていただきながら
生かされている。
私達家族の小さな戦いなどなんの問題もなく
季節は巡る。
ベットの中の娘は
風薫る季節が訪れたことを知らないでいる。
彼女は
きっと2012年 薫風の季節の訪れだけは
生涯の中で記憶にまったく残っていないだろう。
マニュアル通りでない
娘の症状は医者泣かせの様である。
私は夜中、パソコンで検索して
DICという初めて聞く言葉を調べた。
なんらかの原因によって血液が固まる力(凝固能)が高まり、
主に、体中の細小血管、毛細血管の様々なところで
血のかたまり(血栓)ができることがあります。
汎発性血管内凝固とも呼ばれる。
こうして血栓がつくられるとき、
血栓による臓器不全とともに、
血小板や血漿に含まれる血液の凝固に必要な成分が
大量に使われるため、出血があっても、なかなか止まらない
という状態になってしまう。
消費性凝固障害ともいう。
又、血栓ができると、
血漿に含まれている血液を固まりにくくしている物質(凝固阻止因子)、
血栓を溶かすようにはたらく物質(線維素溶解系物質)、
酵素のはたらきが活発になり、止血しにくくなる。
このような状態を、播種性血管内凝固症候群(DIC)という。
昨年末
娘の体から血液がにじみ出てきて
両手 両足が紫色になってしまった様子が
再びよみがえってきた。
娘は
「 うち アバターみたいよね。 」と
腫れて血がにじみ出てきそうな
両手 両腕を出して
他人事のように笑った。
「 ほんとねぇ あんた面白い事言うねぇ 」と
笑って過ごした。
心の中で もっと真剣になれ!と腹が立ちながら
娘のジョークで悲しみが半減されてきた。
私も主人も生きた心地がしなかった。
4月21日(土)
私は 医師の説明を受けて
脳内の出血を恐れた。
主治医は
出血場所がわからない・・・・が
数字だけは信じられない程の異常値を表す事に
頭を抱えた。
生きた心地がしない
娘と直接交わる者は常に生きた心地がしない・・・。
4月22日(日)
荒れ狂うと予報された天気は外れ
爽やかな風が山裾をゆすった。
萌黄色の新芽は匂うように柔らかく揺れた。
お昼を挟んで娘の病院を訪ねた。
主人の姉夫婦と待ち合わせて
娘を見舞った。
一足先に入室していた私を見るなり
娘は
ベットの上で泣いて暴れた。
12歳未満の子供の入室禁止のHCU病棟に
特別の配慮で入室許可されている
HAYATOは子供用の小さなマスクをして
大きな声で挨拶をして
ママのベットのそばに行く。
激しくベットの上で暴れる娘を見て
全員戸惑った。
私は みんなでお昼ご飯を食べてから
再び来てもらうように 主人を促した。
~~~~ ~~~~
私は
声が出ない娘の気持ちが痛いほどわかる。
声が出るなら
「 うちは どこも悪くない!
なんで こんな所に入れておくの!
今すぐ 帰る。 ! 」
と言いたいはず。
娘の頭は混乱して
回路がぐちゃぐちゃになってしまっている。
医師達の心配と困惑を知らずに
少しずつ
ほんの少しずつ
回復の兆しが見える中
いろんな障害を抱えたままで
回復している様子が又不安を引き出す。
~~~~~ ~~~~~
驚いた様子で家族がHCU病棟を離れた後
昼食が運ばれてきた。
娘は
誰もが信じられない様子で食事を口に運び
食べてしまい空っぽになった皿を見て怒った。
娘は
食欲のコントロールがまったく出来なくなっている。
出された食事を全て食べ終わった後も
いつまでも要求して
怒り出す。
テーブルを叩いて
声にならない声を出して怒る。
最後には
スプーンを投げ出して
怒り 食べ物を要求する。
「 もっと もっと 」と
言葉にならない大きな声で叫ぶ。
時間をかけて納得した後やっと様子が落ち着く。
~~~~~ ~~~~~
一時間余りが過ぎ
レストランで食事を済ませ
再び 義姉夫婦と主人 HAYATOが入室してきた。
落ち着きを取り戻している娘は
HAYATOに向かって手招きをした。
近寄ったHAYATOの手を取り
ほっぺをさすった。
「 HAYATO 又太ったよ。」という
私の言葉に
声の出ない娘は
「 は は は は は 」と
声を出した。
「 HAYATOぶうになったよ。」と言ってみると
再びほっぺをさすりながら
「 は は は は は 」と
笑って見せた。
私たちは一斉に笑った。
ユニークな娘の性格を全員知っているので
楽しく笑えた。
はははは の後の愉快な言葉が
全員の頭の中に浮かんでいたことだろう・・・。
間もなく私たちは病室を後にした。
「 後ろ髪 引かれますね。」 と
ベテラン看護師が声をかけてくれた。
4月22日(日) 午後
義姉夫婦と別れた後
帰宅途中
爽やかな薫風に誘われて寄り道をした。

ひとときの安らぎが訪れた。
静かな時間が流れていた。
合わせられた両手の中に
どれだけの
願いが込められているんだろうか・・・。
私は
お地蔵様のふっくらとした掌に見とれた。
木漏れ日が
癒すように肩に降り注いでいた。
娘は
幼児に逆戻りしたかの様な態度を現し始めた。
お母さん
私を抱きしめて・・・
お母さん
私だけを見て・・・
私は観音様の足元ですがる赤子が
娘のように思えてきた。
三人の娘を育ててきた自分の姿がかぶさった。
抱かれて無心に眠る末娘。
お利口さんに待つ長女。
私を抱きしめてとすがる右側の幼子が
次女に みいに 思えてきた。
私は 一番反抗してきた次女 みいを育てるのに
苦労した。
一番 衝突をしてくるみいと
たくさん喧嘩をしてきた。
「 ああ もう こんな子は知らん! 」と
「 おかあさん 好かん! 」と
たくさん喧嘩をして育ててきた。
しかし
愛情がなかったのか なんて
誰の問いかけにも
私は首を縦に振らない。
どの子も私は可愛い。
精一杯の愛情をかけて
ともに
同じ時間を共有しながら過ごしてきた。
その時間は
常にジョークの上手なみいによって
楽しい思い出となって
私の胸に終われている。
みいの胸には・・・・?
私は
右下の幼子がみいに思えてきた。
お母さん もっと もっと 私を抱きしめて・・・。
みいは
満たされない気持ちで
幼少時期を過ごしたんだろうか・・・。

幼子のほっぺのように
柔らかい日差しが降り注いでいた。
私は
今から
31歳の娘を前に
もう一度 娘の心を満たすために
過ぎ去った「 時 」を やり直さなければならない。
私達夫婦は
もう一度 31年前にもどり
置き去りにされたみいの欲求を
連れ戻さなくてはならない。
56歳の私は
57歳の主人と共に
共に 手を取り合って
歩んでいかなければならない。
自分の体を大切に
それぞれの体を大切に
私達夫婦は 歩んでいかなければならない。
( 佐世保市吉井町 御橋観音 )
人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
絵馬師 殿村進「絆」~愛あればこそ~ より
私と主人をパソコンのデーターの前に導き
首をかしげた。
「 播種性血管内凝固症候群(DIC)を疑う数値が
ぐんぐん高くなっています。
信じられない程の値です。
僕はこの一週間生きた心地がしない。 」
先生
私も 主人も 生きた心地がしない・・・。
私はこの言葉を心の中に押し込めた。
深野先生
私は
この一週間… いいえ
数えきれないほど
娘の生死を目の当たりにして
生きた心地がしない思いを
繰り返してきたことか・・・。
娘を見てくださる多くの医師たちから
「 解らない・・・。 」という
言葉を何度耳にしてきたことか・・・。
娘を見てくださる先生たちは一様に
首をかしげてこられたことか・・・?
娘は筋肉という筋肉を消費させながら
娘は脂肪を削りながら
食物の摂取量と運動によるエネルギーの消費量の
反比例の日々を繰り返しながら
夏を越せないほど肝機能の悪化したまま
昨年の秋を迎え
冬を越し
束の間の春の日差しの中を散歩し
初夏を迎えようとしている。
多くの方に見守られながら
多くの方に祈っていただきながら
生かされている。
私達家族の小さな戦いなどなんの問題もなく
季節は巡る。
ベットの中の娘は
風薫る季節が訪れたことを知らないでいる。
彼女は
きっと2012年 薫風の季節の訪れだけは
生涯の中で記憶にまったく残っていないだろう。

マニュアル通りでない
娘の症状は医者泣かせの様である。
私は夜中、パソコンで検索して
DICという初めて聞く言葉を調べた。
なんらかの原因によって血液が固まる力(凝固能)が高まり、
主に、体中の細小血管、毛細血管の様々なところで
血のかたまり(血栓)ができることがあります。
汎発性血管内凝固とも呼ばれる。
こうして血栓がつくられるとき、
血栓による臓器不全とともに、
血小板や血漿に含まれる血液の凝固に必要な成分が
大量に使われるため、出血があっても、なかなか止まらない
という状態になってしまう。
消費性凝固障害ともいう。
又、血栓ができると、
血漿に含まれている血液を固まりにくくしている物質(凝固阻止因子)、
血栓を溶かすようにはたらく物質(線維素溶解系物質)、
酵素のはたらきが活発になり、止血しにくくなる。
このような状態を、播種性血管内凝固症候群(DIC)という。
昨年末
娘の体から血液がにじみ出てきて
両手 両足が紫色になってしまった様子が
再びよみがえってきた。
娘は
「 うち アバターみたいよね。 」と
腫れて血がにじみ出てきそうな
両手 両腕を出して
他人事のように笑った。
「 ほんとねぇ あんた面白い事言うねぇ 」と
笑って過ごした。
心の中で もっと真剣になれ!と腹が立ちながら
娘のジョークで悲しみが半減されてきた。
私も主人も生きた心地がしなかった。
4月21日(土)
私は 医師の説明を受けて
脳内の出血を恐れた。
主治医は
出血場所がわからない・・・・が
数字だけは信じられない程の異常値を表す事に
頭を抱えた。
生きた心地がしない
娘と直接交わる者は常に生きた心地がしない・・・。
4月22日(日)
荒れ狂うと予報された天気は外れ
爽やかな風が山裾をゆすった。
萌黄色の新芽は匂うように柔らかく揺れた。

お昼を挟んで娘の病院を訪ねた。
主人の姉夫婦と待ち合わせて
娘を見舞った。
一足先に入室していた私を見るなり
娘は
ベットの上で泣いて暴れた。
12歳未満の子供の入室禁止のHCU病棟に
特別の配慮で入室許可されている
HAYATOは子供用の小さなマスクをして
大きな声で挨拶をして
ママのベットのそばに行く。
激しくベットの上で暴れる娘を見て
全員戸惑った。
私は みんなでお昼ご飯を食べてから
再び来てもらうように 主人を促した。
~~~~ ~~~~
私は
声が出ない娘の気持ちが痛いほどわかる。
声が出るなら
「 うちは どこも悪くない!
なんで こんな所に入れておくの!
今すぐ 帰る。 ! 」
と言いたいはず。
娘の頭は混乱して
回路がぐちゃぐちゃになってしまっている。
医師達の心配と困惑を知らずに
少しずつ
ほんの少しずつ
回復の兆しが見える中
いろんな障害を抱えたままで
回復している様子が又不安を引き出す。
~~~~~ ~~~~~
驚いた様子で家族がHCU病棟を離れた後
昼食が運ばれてきた。
娘は
誰もが信じられない様子で食事を口に運び
食べてしまい空っぽになった皿を見て怒った。
娘は
食欲のコントロールがまったく出来なくなっている。
出された食事を全て食べ終わった後も
いつまでも要求して
怒り出す。
テーブルを叩いて
声にならない声を出して怒る。
最後には
スプーンを投げ出して
怒り 食べ物を要求する。
「 もっと もっと 」と
言葉にならない大きな声で叫ぶ。
時間をかけて納得した後やっと様子が落ち着く。
~~~~~ ~~~~~
一時間余りが過ぎ
レストランで食事を済ませ
再び 義姉夫婦と主人 HAYATOが入室してきた。
落ち着きを取り戻している娘は
HAYATOに向かって手招きをした。
近寄ったHAYATOの手を取り
ほっぺをさすった。
「 HAYATO 又太ったよ。」という
私の言葉に
声の出ない娘は
「 は は は は は 」と
声を出した。
「 HAYATOぶうになったよ。」と言ってみると
再びほっぺをさすりながら
「 は は は は は 」と
笑って見せた。
私たちは一斉に笑った。
ユニークな娘の性格を全員知っているので
楽しく笑えた。
はははは の後の愉快な言葉が
全員の頭の中に浮かんでいたことだろう・・・。
間もなく私たちは病室を後にした。
「 後ろ髪 引かれますね。」 と
ベテラン看護師が声をかけてくれた。
4月22日(日) 午後
義姉夫婦と別れた後
帰宅途中
爽やかな薫風に誘われて寄り道をした。

ひとときの安らぎが訪れた。
静かな時間が流れていた。

合わせられた両手の中に
どれだけの
願いが込められているんだろうか・・・。
私は
お地蔵様のふっくらとした掌に見とれた。
木漏れ日が
癒すように肩に降り注いでいた。
娘は
幼児に逆戻りしたかの様な態度を現し始めた。
お母さん
私を抱きしめて・・・
お母さん
私だけを見て・・・
私は観音様の足元ですがる赤子が
娘のように思えてきた。
三人の娘を育ててきた自分の姿がかぶさった。
抱かれて無心に眠る末娘。
お利口さんに待つ長女。
私を抱きしめてとすがる右側の幼子が
次女に みいに 思えてきた。

私は 一番反抗してきた次女 みいを育てるのに
苦労した。
一番 衝突をしてくるみいと
たくさん喧嘩をしてきた。
「 ああ もう こんな子は知らん! 」と
「 おかあさん 好かん! 」と
たくさん喧嘩をして育ててきた。
しかし
愛情がなかったのか なんて
誰の問いかけにも
私は首を縦に振らない。
どの子も私は可愛い。
精一杯の愛情をかけて
ともに
同じ時間を共有しながら過ごしてきた。
その時間は
常にジョークの上手なみいによって
楽しい思い出となって
私の胸に終われている。
みいの胸には・・・・?
私は
右下の幼子がみいに思えてきた。
お母さん もっと もっと 私を抱きしめて・・・。
みいは
満たされない気持ちで
幼少時期を過ごしたんだろうか・・・。

幼子のほっぺのように
柔らかい日差しが降り注いでいた。
私は
今から
31歳の娘を前に
もう一度 娘の心を満たすために
過ぎ去った「 時 」を やり直さなければならない。
私達夫婦は
もう一度 31年前にもどり
置き去りにされたみいの欲求を
連れ戻さなくてはならない。
56歳の私は
57歳の主人と共に
共に 手を取り合って
歩んでいかなければならない。
自分の体を大切に
それぞれの体を大切に
私達夫婦は 歩んでいかなければならない。

( 佐世保市吉井町 御橋観音 )


人生幾山河
歩きつづけて
歩きつづけて
到達するのは
新しい出発点
絵馬師 殿村進「絆」~愛あればこそ~ より
Posted by パールじゅんこ at 06:30│Comments(0)