
2013年01月20日
里帰り パートⅣ 懐かしい大阪
滑る様に流れる車窓からの景色は
あっという間に神戸を過ぎ
大阪の中心街をも通過しようとしている。
懐かしい大阪の街並みは
青春を謳歌していた頃に記憶を
スリップさせた。
昭和49年・・・・50年・・・・ 51年・・・
主人に誘われ
大阪南港の防波堤に腰を掛けて眺めた
対岸 神戸の夜景。
主人の愛車セリカ リフトバック(トヨタ車)から流れる
ユーミンの歌に耳を傾け
山口百恵の歌に和み
ビートルズに酔いしれた青春の日々。
私達に言葉はいらなかった。
大阪湾越しに眺めた神戸の夜景は
ゆらゆらと夜の海に映え
若い二人の心をくすぐった。
当時は
愛車を自由に乗り回していた主人にも
神戸は遠い町であった。

カーナビがコースを選択しなければ
私は
地図を片手に
阪神高速 湾岸線を通り
堺東 泉北ニュータウンへと
行きたかったが・・・
視力に自信がなくなった私は
カーナビに主人の案内役を任せた。
阪神高速~環状線~
主人は気持ちよさそうにハンドルさばきを
楽しんでいた。
私は黙って大阪マルビルを探した。
昭和52年1月 主人とふたりで
大阪の街を去る決心をつけた時
最後のデートの場所に選んだ大阪マルビル。
当時最高の高さを誇った大阪マルビルの最上階で
食事をしながら夜景を眺めた
あの時間を私は忘れていない。
あれから30数年
私は主人と 全ての思い出を共有した。
綺麗で洗練されたたくさんの高層ビルの陰で
私は
大阪マルビルを見つけることは出来なかった。
~阪神高速~阪和道堺ICで車は一般道へとおりた。

近づいてくる泉北ニュータウン
泉北駅近くのヤングタウンを目で追った。
数年前訪れた時には
4棟あった建物が取り壊され2棟しか
残っていなかったが・・
それが・・・
すでに全棟取り壊され姿を消してしまっていた。
多くの若者で賑わっていたヤングタウンは・・
私達がそれぞれに暮らしていたヤングタウンは・・
姿を消してしまった。
11時の門限に遅れないように
主人と別れ駆け込んで帰っていた
あの懐かしい若者たちの街ヤングタウンは
跡形もなく消え去った。
感傷にふける間もなく
カーナビは姉の住まいの玄関先で
案内を終了した。
1月2日 午後
懐かしい再会の時がきた。
幼いころから交流の深い
二人の甥っ子たちとは言葉はいらなかった。
待ってましたとばかり
酒を酌み交わした
結婚前からの付き合いの義兄と主人に
堅苦しいあいさつはいらなかった。
気心の知れた甥っ子の嫁はすっかり馴染み
女たちは
語り合う時間もなく絶えず忙しかった。
しかし ここにも言葉は必要なかった。
HAYATOは
昨年の夏、 一昨年の夏と
九州に遊びにきたふたいとこ達と
瞬時に打ち解けあって
楽しい時を過ごした。

翌日 1月3日 午後3時
姉たち夫婦と束の間の再会に別れを告げ
甥っ子家族と共に
世界最大級の水族館と呼ばれる
天保山海遊館に出かけた。

午後7時05分出航の時間まで
大阪南港のフェリーさんふらわあ乗り場のすぐ近くの
天保山で楽しい時を送った。

HAYATOは
広い水族館の中を
ふた従兄弟たちと駆け回りながら
主役を務める大きなジンベエザメよりも
サメよりも
エイやマンタよりも
カワハギ・アジ・イサキに目を輝かせた。

そして 海遊館横にある
世界最大級の天保山大観覧車にのり
大阪の街に別れを告げた。

地上112,5mの天保山大観覧車は8人乗り なので
ひとつのゴンドラに甥っ子家族と
みんながワイワイと乗り込んだ。

亡き母が好きだった通天閣が
目に入った。
すっかり姉妹のようになった甥っ子の嫁が
「 みいちゃん
次は 一緒に ユニバーサルにいこやー。」と
眼下に広がる
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンを指さして
次回の再会を約束した。

暮れようとしている
神戸の山々
生駒山の稜線
大阪の街並み・・・・
多くを語らない主人から
郷愁にかられている様子が
手に取る様に伝わってきた。
一周15分の間に
静かに 明石海峡の上に陽が沈んでいった。

大観覧車を降りて15分後 甥っ子は
大阪南港コスモフェリーターミナルへと先導した。
駐車場で別れを告げ車を出した甥っ子家族に
チビッコ達は大きな声でお互いに
「 またねー。 バイバーーーイ。と
手を振り合った。
私と姉の絆が・・・
姉の二人の息子やその嫁と
私の三人の娘や婿が契りあって・・・
そしてその子供たちへと絆がバトンされていく様を
目のあたりにして
なによりもあったかい思いで私の心は満たされた。

1月3日(木) 午後7時5分
大阪南港発 大分別府行き
フェリーさんふらわあ コバルトは
静かに岸を離れた。
あっという間に神戸を過ぎ
大阪の中心街をも通過しようとしている。
懐かしい大阪の街並みは
青春を謳歌していた頃に記憶を
スリップさせた。
昭和49年・・・・50年・・・・ 51年・・・
主人に誘われ
大阪南港の防波堤に腰を掛けて眺めた
対岸 神戸の夜景。
主人の愛車セリカ リフトバック(トヨタ車)から流れる
ユーミンの歌に耳を傾け
山口百恵の歌に和み
ビートルズに酔いしれた青春の日々。
私達に言葉はいらなかった。
大阪湾越しに眺めた神戸の夜景は
ゆらゆらと夜の海に映え
若い二人の心をくすぐった。
当時は
愛車を自由に乗り回していた主人にも
神戸は遠い町であった。




カーナビがコースを選択しなければ
私は
地図を片手に
阪神高速 湾岸線を通り
堺東 泉北ニュータウンへと
行きたかったが・・・
視力に自信がなくなった私は
カーナビに主人の案内役を任せた。
阪神高速~環状線~
主人は気持ちよさそうにハンドルさばきを
楽しんでいた。
私は黙って大阪マルビルを探した。
昭和52年1月 主人とふたりで
大阪の街を去る決心をつけた時
最後のデートの場所に選んだ大阪マルビル。
当時最高の高さを誇った大阪マルビルの最上階で
食事をしながら夜景を眺めた
あの時間を私は忘れていない。
あれから30数年
私は主人と 全ての思い出を共有した。
綺麗で洗練されたたくさんの高層ビルの陰で
私は
大阪マルビルを見つけることは出来なかった。
~阪神高速~阪和道堺ICで車は一般道へとおりた。





近づいてくる泉北ニュータウン
泉北駅近くのヤングタウンを目で追った。
数年前訪れた時には
4棟あった建物が取り壊され2棟しか
残っていなかったが・・
それが・・・
すでに全棟取り壊され姿を消してしまっていた。
多くの若者で賑わっていたヤングタウンは・・
私達がそれぞれに暮らしていたヤングタウンは・・
姿を消してしまった。
11時の門限に遅れないように
主人と別れ駆け込んで帰っていた
あの懐かしい若者たちの街ヤングタウンは
跡形もなく消え去った。
感傷にふける間もなく
カーナビは姉の住まいの玄関先で
案内を終了した。
1月2日 午後
懐かしい再会の時がきた。
幼いころから交流の深い
二人の甥っ子たちとは言葉はいらなかった。
待ってましたとばかり
酒を酌み交わした
結婚前からの付き合いの義兄と主人に
堅苦しいあいさつはいらなかった。
気心の知れた甥っ子の嫁はすっかり馴染み
女たちは
語り合う時間もなく絶えず忙しかった。
しかし ここにも言葉は必要なかった。
HAYATOは
昨年の夏、 一昨年の夏と
九州に遊びにきたふたいとこ達と
瞬時に打ち解けあって
楽しい時を過ごした。

翌日 1月3日 午後3時
姉たち夫婦と束の間の再会に別れを告げ
甥っ子家族と共に
世界最大級の水族館と呼ばれる
天保山海遊館に出かけた。





午後7時05分出航の時間まで
大阪南港のフェリーさんふらわあ乗り場のすぐ近くの
天保山で楽しい時を送った。

HAYATOは
広い水族館の中を
ふた従兄弟たちと駆け回りながら
主役を務める大きなジンベエザメよりも
サメよりも
エイやマンタよりも
カワハギ・アジ・イサキに目を輝かせた。

そして 海遊館横にある
世界最大級の天保山大観覧車にのり
大阪の街に別れを告げた。

地上112,5mの天保山大観覧車は8人乗り なので
ひとつのゴンドラに甥っ子家族と
みんながワイワイと乗り込んだ。

亡き母が好きだった通天閣が
目に入った。
すっかり姉妹のようになった甥っ子の嫁が
「 みいちゃん
次は 一緒に ユニバーサルにいこやー。」と
眼下に広がる
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンを指さして
次回の再会を約束した。

暮れようとしている
神戸の山々
生駒山の稜線
大阪の街並み・・・・
多くを語らない主人から
郷愁にかられている様子が
手に取る様に伝わってきた。
一周15分の間に
静かに 明石海峡の上に陽が沈んでいった。

大観覧車を降りて15分後 甥っ子は
大阪南港コスモフェリーターミナルへと先導した。
駐車場で別れを告げ車を出した甥っ子家族に
チビッコ達は大きな声でお互いに
「 またねー。 バイバーーーイ。と
手を振り合った。
私と姉の絆が・・・
姉の二人の息子やその嫁と
私の三人の娘や婿が契りあって・・・
そしてその子供たちへと絆がバトンされていく様を
目のあたりにして
なによりもあったかい思いで私の心は満たされた。





1月3日(木) 午後7時5分
大阪南港発 大分別府行き
フェリーさんふらわあ コバルトは
静かに岸を離れた。
Posted by パールじゅんこ at 03:40│Comments(0)