
2013年06月05日
摂食障害の娘と共に 365日
5月24日 19時43分
大きなお月様が東の空からゆっくりと登ってきた。

暗くなるのを待てないHAYATOは
元気よく玄関を飛び出して
蛍狩りを楽しんだ。

今年も たくさんのホタルの舞う季節がやってきた。
HAYATOはたくさんのホタルを捕まえて
家に入ってきた。

ホタルはHAYATOと戯れたあと
再び 元気に庭の闇の中に消えていった。


真ん丸いお月様は
全てをまあるく包み込んで
夜がゆっくりと更けていった。








平成25年5月
ふっくらと 可愛らしいほたるぶくろは
元気に登校していくHAYATOを見送った。

すっかり 元気を取り戻したみいは
完璧にHAYATOの世話ができるようになった。
ぴっかぴっかの一年生になったHAYATOを
お友達の玄関先まで送るのが
毎朝の日課になっている。
静かな朝
「 いってきま~~す。 」と
HAYATOの元気な声が響いた。

新しい生活に踏み出したHAYATOを見送ったみいは
晩白柚のかおりに包まれている庭先を
長い時間散歩をしてから家にはいってくる。







一年という時間が流れた。
静かに
穏やかに
楽しく
私は息を凝らして 慎重に時間を積み重ねた。
平成24年4月
尿路結石の手術後 意識不明に陥り
生死の狭間をさまよったみいは
高次脳機能障害
摂食障害
言語障害
様々な大きな障害を残したまま
平成24年5月23日 退院してきた。
病院でのみいは
感情のコントロールが出来ず
言葉にならない声を張り上げて
看護師に当たり散らしていた。
見舞った私達家族にも罵声を浴びさせた。
「 もう 二度と見舞うものか!」と
腹を立てて病院を後にしたときもあった。
情けなくて
涙をぬぐいながら病室を出たことも度々あった。
退院を間直に控えたころ
主治医は言いにくそうに
「 言葉は非常に悪いんですが・・・
このまま・・・ だまして・・・
精神病院に転院された方が・・・・
ご自宅での生活は無理のように思われます。」
言葉をつまらせながら私に告げた。
てのひら返すように突然怒り出すみいに
内科病棟の看護師さんたちは手を焼いているようだった。
主人も同意した。
「 もし 訳がわからんで 台所にたって
火事でもおこしたら大変だ。
一人で家に居るのは危ないぞ。」
私は・・・
病院でのストレスがみいを狂わせていると感じていた。
私は・・・
みいが自宅に帰りたがっていることは十分察していた。
私は・・・
大丈夫だと思った。
なんの根拠もないが 大丈夫だと思えた。
みいの居場所は自宅だと思えた。
しかし
この先みいにどんな人生が待っているのか
不安で押しつぶされそうになっていたのも事実であった。
ちょうど一年前 みいは我が家に帰ってきた。
私はみいを一人残して
毎朝 勤めに出た。
「 ゆっくりしときなさいね。 」と手を振って
午前8時
主人とHAYATOと共に車に乗り込み
毎朝 出かけたのだった。
みいは
私達を見送ったあと
長い朝の時間を家の周りを散歩していた。
独りぼっちで 自由に 気ままに 過ごしていた。
みいはじーと立ち止まり
緑の木々を
たくさんの清楚な花を眺めて過ごしていた。
又 あるときは足早に家の周りを歩いていた。

退院したばかりのみいは
常に「 ふんふん・・ ふんふん・・ 」と
胸の奥から ?
のどの奥から ?
頭の中から ?
一定のリズムで不思議な声(?)を発していた。
目が覚めたと同時に2階で「 ふんふん・・ ふんふん・・・」
洗濯物を干しながら「 ふんふん・・・ 」
散歩をしながら「 ふんふん・・・ 」
トイレの中から「 ふんふん・・・ 」
脳がおかしい・・ と感じずにおれなかった。
「 又 ふんふん言ってるよ。」と注意すると
「 そうお? 聞こえよると?
頭の中に 虫が住んでるんかなあ 」と
かたことのようなしゃべり方でみいは冗談を言った。
言語障害は長い時間をかけて
ゆっくりと回復していった。 が
一年経った今でも 少し話しづらそうである。
この「 ふんふん・・ ふんふん・・・ 」は
今年の2月頃まで続き
今では全く言わなくなった。
退院して 間もなくみいは主婦表を熟し始めた。
私は家計財布をみいに渡した。
みいは
規則正しく きっちりと時間どうりに行動し
買い物や 洗濯 掃除 夕食の準備が出来始めた。
しかし
同じ献立の繰り返しが続いた。
私は主人と顔を見合わせては何も言わず
晩御飯の席に着き
HAYATOと共にテレビのお笑い番組を楽しみながら
食事を終わらせた。
「 美味しかったよ 」の言葉で締めくくる日を続けた。
台所には同じ調味料ばかりがあふれだした。
しかし敢えて そのことには触れなかった。
退院してから数日後
私はあれ? と気付いたことがあった。
そういえば みいは洋服を着替えていない・・!
私は
脱衣所に脱いだ洋服をきちんとたたんで入浴しているみいに
毎晩声をかけた。
「 みい 洋服着替えなさいね。 」
「 わ か っ た 」 と返事が返ってきた。
長い間 注意してやらないと着替えることが出来なかった。
私は毎晩 入浴中のみいに声をかけた。
退院当初
私は
障害の残ったみいを一生診ていかなければいけないんだ。と
不安で仕方がなかった。
みいは午後の決まった時間は
2階の自分の部屋に入りぐっすりと眠っていたようであった。
一定のリズムでみいの生活が始まった。
私は
平凡な毎日に 敢えて変化を持たせようと試みた。
平成24年6月26日~27日
雨降りを承知で
HAYATOの誕生日に
佐世保 ハウステンボスで一泊二日を過ごす計画を立てた。
みいはその夜バイキングを堪能した。
私達はみいのその食欲に驚いたが
干渉はしないよう努めた。
あんなに食べることを拒んでいたみいの口元に
沢山の御馳走が寄せられることに私は安堵した。
過食と言えるその食欲に私は喜びさえ感じた。
その夜
私と二人だけの部屋のベットの中で
「 うち 食べていなかったの? 」
「 なんで 入院していたの? 」と
繰り返し繰り返し 私に訪ねてきた。
ドアを開け放した隣の部屋のベットの中からは
主人の軽いいびきと
HAYATOの心地良い寝息が聞こえていた。

ハウステンボスのコテージ 「フォレスト ヴィラ」の上に
静かに雨が降り注いでいた。


障害が残ってもいい。
みいは 生きている。
私は心底 そう思えた。

Posted by パールじゅんこ at 02:34│Comments(0)