
2013年06月06日
摂食障害の娘と共に365日 梅雨
平成24年6月 梅雨
雨の日が続いた。
「 Singing In The rain 」
( 雨に 唄えば )
Doo-dloo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo...
I'm singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin'
I'm happy again
・・・・・・

明けても 暮れても 雨の日が続いた。
みいとは 当たり前の会話が成り立たなかった。
言葉のキャッチボールが出来なかった。
一方通行の話しかけの日々が続いた。
簡単なことを
当然知っているはずの事柄を根気よく話しかけた。
夕方になると毎日窓の外を眺めながらみいは呟いた。
「 MIHOはかえってこないねぇ
お姉ちゃんはおそいねぇ 」
二人の姉妹の帰宅を待っていた。
みいの頭から二人の姉妹が結婚している事が消えていた。
「 お姉ちゃんもMIHOも 結婚したから・・・・ね。」
「 そうかぁ 」
そして 次の日も日が暮れかかると
同じ言葉をつぶやいた。

「 どう 考えても
佐世保共済病院へ行った日のことも
なんで手術をしたのかも思い出せない。 」
「 よかよか!
人間 忘れたくても忘れられないことはいっぱいある!!
覚えとらんでもよかぞ。 」
どんな時でも楽天的な主人である。


Doo-dloo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo...
洗濯 掃除 晩御飯の準備後片付け 買い物・・
みいは
主婦として最低限の家事をきっちりと熟した。
しかし
HAYATOの世話は出来なかった。
小さな通園バックの中から
今日の体操服を取り出し洗濯された着替えと取り換える。
ハンカチを入れ替える
給食のお箸を取り出し洗って再びバックに入れる。
その3点の簡単なことが出来なかった。
私は繰り返し 繰り返し みいに教えた。
取り出した汚れた体操服は
ぽんと取り出してあるだけで洗濯機の中に入れることが出来なかった。
洗ったお箸はふきんでふくこともなく再び箸箱の中に入れられていた。
私は
こんなに簡単なことを
何回も 何回も 繰り返し教えた。
大きな幼子がいるようで
私の毎日は なんだか てんてこ舞いだった。
毎日きっちりと近くのスーパーにでかけていくみいは
私達夫婦の翌日の弁当のおかずのための食材はきちんと
買い揃えることは出来た。
冷蔵庫の中は
みいの好きな甘いおやつや プリン ゼリー 果物が揃えられて
冷凍庫にはみいの好きなアイスクリームが絶えることは無く
常に補充されていた。
朝食と昼食はみい一人で好きなものを食べていたようである。
ようである・・・・
私は務めに出たので
みいの朝食 昼食はあくまでも私の想像であった。
いつも
美味しそうなパンがレンジの上に置かれ
一定の量で減っていくのが
みいの食事のバロメーターであった。
食に関して
私はいっさい口出ししなかった。
みいがこの世からいなくなる・・・という思いをした私は
みいが
どんなものを
どんな形で食べようが関係なかった。
生きてさえいてくれれば
そんな問題はちっぽけな事だった。
長い間
私はみいを心療内科を受診させるために気を配った。
みいの異変に気が付いたのは
平成18年だった。
当初 私は喧嘩腰で長崎県北にある心療内科を
片っ端から受診させた。
「 うちはどこも悪い所なんてないよ。
お母さんが気が済むなら
受診するよ。
診察室には入らないでよ。」
と拒み 診察の内容は雲の中の出来事だった。
一度受診した病院には二度と足を運ぼうとしなかった。
私は
いつか みいに合った医師に出会えるはず・・
いつか みいの心を立ちなおしてもらえる医師と出会えるはず・・・
と 必死になっていた。
どんどんと悪化していくみいの体は
すでに 心療内科受診の枠を外れた。
ネットで全国の摂食障害の名医を探し
片っ端から予約の電話を入れた。
しかし
「 当院では お力になれません。」
摂食障害の名医に出会える前にみいは窓口で拒まれた。
1時間以上車を走らせ
長崎県下にある有名な心療内科を訪ねたおりも
「 当院では娘さんを お受けできません。 」と拒まれてしまった。
藁をもすがる気持ちで
専門の知識を持った医師を探したが
有名な専門医の前に座る前に
みいはどこからも拒まれ続けた。
大きな障害を抱えたみいと
再び〇からやり直さなければならない私の腹は座っていた。
この時点では日本中どこを探しても
みいを受診してくださる摂食障害専門の医師はいない。
頼れる他人はいない。
みいと共に生きていくのは私達家族しかいない。
私の腹は座っていた。
不安はいっぱいあるが 怖いものはなかった。
平成24年6月
雨は 静かにふり続いていた。
みいは
ゆっくりと 規則正しい日々を送った。

雨の日が続いた。
「 Singing In The rain 」
( 雨に 唄えば )

Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo...

I'm singing in the rain
Just singing in the rain
What a glorious feelin'
I'm happy again
・・・・・・


明けても 暮れても 雨の日が続いた。
みいとは 当たり前の会話が成り立たなかった。
言葉のキャッチボールが出来なかった。
一方通行の話しかけの日々が続いた。
簡単なことを
当然知っているはずの事柄を根気よく話しかけた。
夕方になると毎日窓の外を眺めながらみいは呟いた。
「 MIHOはかえってこないねぇ
お姉ちゃんはおそいねぇ 」
二人の姉妹の帰宅を待っていた。
みいの頭から二人の姉妹が結婚している事が消えていた。
「 お姉ちゃんもMIHOも 結婚したから・・・・ね。」
「 そうかぁ 」
そして 次の日も日が暮れかかると
同じ言葉をつぶやいた。

「 どう 考えても
佐世保共済病院へ行った日のことも
なんで手術をしたのかも思い出せない。 」
「 よかよか!
人間 忘れたくても忘れられないことはいっぱいある!!
覚えとらんでもよかぞ。 」
どんな時でも楽天的な主人である。



Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo
Doo-dloo-doo-doo-doo-doo...

洗濯 掃除 晩御飯の準備後片付け 買い物・・
みいは
主婦として最低限の家事をきっちりと熟した。
しかし
HAYATOの世話は出来なかった。
小さな通園バックの中から
今日の体操服を取り出し洗濯された着替えと取り換える。
ハンカチを入れ替える
給食のお箸を取り出し洗って再びバックに入れる。
その3点の簡単なことが出来なかった。
私は繰り返し 繰り返し みいに教えた。
取り出した汚れた体操服は
ぽんと取り出してあるだけで洗濯機の中に入れることが出来なかった。
洗ったお箸はふきんでふくこともなく再び箸箱の中に入れられていた。
私は
こんなに簡単なことを
何回も 何回も 繰り返し教えた。
大きな幼子がいるようで
私の毎日は なんだか てんてこ舞いだった。
毎日きっちりと近くのスーパーにでかけていくみいは
私達夫婦の翌日の弁当のおかずのための食材はきちんと
買い揃えることは出来た。
冷蔵庫の中は
みいの好きな甘いおやつや プリン ゼリー 果物が揃えられて
冷凍庫にはみいの好きなアイスクリームが絶えることは無く
常に補充されていた。
朝食と昼食はみい一人で好きなものを食べていたようである。
ようである・・・・
私は務めに出たので
みいの朝食 昼食はあくまでも私の想像であった。
いつも
美味しそうなパンがレンジの上に置かれ
一定の量で減っていくのが
みいの食事のバロメーターであった。
食に関して
私はいっさい口出ししなかった。
みいがこの世からいなくなる・・・という思いをした私は
みいが
どんなものを
どんな形で食べようが関係なかった。
生きてさえいてくれれば
そんな問題はちっぽけな事だった。
長い間
私はみいを心療内科を受診させるために気を配った。
みいの異変に気が付いたのは
平成18年だった。
当初 私は喧嘩腰で長崎県北にある心療内科を
片っ端から受診させた。
「 うちはどこも悪い所なんてないよ。
お母さんが気が済むなら
受診するよ。
診察室には入らないでよ。」
と拒み 診察の内容は雲の中の出来事だった。
一度受診した病院には二度と足を運ぼうとしなかった。
私は
いつか みいに合った医師に出会えるはず・・
いつか みいの心を立ちなおしてもらえる医師と出会えるはず・・・
と 必死になっていた。
どんどんと悪化していくみいの体は
すでに 心療内科受診の枠を外れた。
ネットで全国の摂食障害の名医を探し
片っ端から予約の電話を入れた。
しかし
「 当院では お力になれません。」
摂食障害の名医に出会える前にみいは窓口で拒まれた。
1時間以上車を走らせ
長崎県下にある有名な心療内科を訪ねたおりも
「 当院では娘さんを お受けできません。 」と拒まれてしまった。
藁をもすがる気持ちで
専門の知識を持った医師を探したが
有名な専門医の前に座る前に
みいはどこからも拒まれ続けた。
大きな障害を抱えたみいと
再び〇からやり直さなければならない私の腹は座っていた。
この時点では日本中どこを探しても
みいを受診してくださる摂食障害専門の医師はいない。
頼れる他人はいない。
みいと共に生きていくのは私達家族しかいない。
私の腹は座っていた。
不安はいっぱいあるが 怖いものはなかった。
平成24年6月
雨は 静かにふり続いていた。
みいは
ゆっくりと 規則正しい日々を送った。

Posted by パールじゅんこ at 08:14│Comments(0)