
2015年10月25日
人生 棒に振るなよ
一段と高くなった空から
さんさんと太陽が降り注いでいた。

午後2時
国道に面した洋風のモダンな家の前に立った。
玄関前の交差点では
信号で停まった車が直進したり左折、右折を繰り返し、
エンジン音が途切れることは無かった。
玄関の横にある停留所では
数人の白髪混じりの女性がバスを待っていた。
道路の向こうの高台にある鉄道の駅は閑散としていた。
歩道に添ったフェンスの中では
サツキの植え込みが綺麗に選定され
門扉の前のポーチではベゴニアが風に揺られて首を振っていた。
私は小さなライオン錠を上げて門扉を開けた。
西の庭でシンボルツリーを務めるタイサンボクは
新築の時に植樹され25~6年あまり経つはずなのに
程よい大きさを保ち
大きな葉っぱを秋の陽ざしに向かって広げていた。
南に面した庭には綺麗に刈られた芝生が一面に広がっていた。
芝生の中で緩やかなカーブを描いている白っぽい石のアプローチを
ゆっくりと歩き玄関へと向かった。
居間の出窓の前には程よい高さのヒメシャラの木が
往来からの目隠し役を務めさやさやと風に揺られていた。
新築の頃頻繁にお邪魔していたことを思いだしながら
懐かしい思いでチャイムを押し寸時待った。

玄関先では
カンノンチクやカネノナルキやベゴニアの鉢植えが
丹精込めて育てられていた。
打ち水が施された玄関先は清々しく
客を待つ作法を心得た計らいに心打たれた。
2時間前の私からの電話を受け 部屋を整え 庭先を整え
私という客を待っていてくれた心配りが嬉しかった。

私は作法と無縁で
あくせくと働いて あくせくと暮らしている今の自分を恥じた。
人生棒に振るなよ
と言った主人の言葉が今更ながらよみがえってきた。
もっと丁寧に生きて行かなければ
私はせっかくの人生を棒に振ってしまう。
こんな素敵な作法を自然と身につけている方に
私は20歳後半から30歳前半の頃雇われていたのである。
当時頻繁に訪れたおうちであった。
実に久しぶりの訪問である。
素敵な時間を持てるはずであることに心がときめいた。
私はチャイムに自然と顔を近づけて自分の名を告げた。
「 お待ちしていました。 」と
きびきびとしたハリのある声がして玄関が開けられた。

間もなく70歳を迎えるKUMIKO先生と
私は長い間会っていなかった。
同じ町内に住み歩いて10分の距離に住んでいながら
年賀状だけが私たちをつないでいた。
私より首一つ小さなKUMIKO先生は
凛とした姿勢で私を迎え入れた。
その頭には洒落たバンダナが巻かれていた。
若い頃頻繁に招き入れられた居間には
仕事を退かれたご主人のくつろいでいる気配が感じられた。
玄関横の床の間へと招き入れられた私を少し待たせて
KUMIKO先生はコーヒーを入れるために
キッチンへとさがった。
私は家の間取りがすべてわかっているので
KUMIKO先生の動きが手に取るようにわかった。
わずかな間 窓の外に見とれた。
玄関横の植木鉢の観葉植物が和室から眺めることが出来、
庭の木の葉の上ではちらちらと秋の陽射しが戯れていた。
落ち着いた趣の和室の中は静かな時間が流れていた。
それは取るに足らない短い時間のはずだが
私は満たされた幸せを感じた。

KUMIKO先生は
コーヒーとドライフルーツ
そして一口で食べられるように小さく切ったリンゴで
私をもてなしてくれた。
この春
私は風のうわさで
KUMIKO先生が長年開いてきた塾を退いたことを知った。
そしてその真相を確かめたくて
数回電話を入れたが連絡がつかず
やっとKUMIKO先生と連絡が取れたのは
初夏を迎えようとしていたころであった。
49年という歳月を教室の子供たちを導き
来年は本部から表彰を受ける予定になっていたが
突然の病にやむを得ず指導者の席を退いたことを
電話の向こうから聞かされたのである。
「 遊びに出かけて来てくださいね。」という約束を
私はやっと果たすことが出来たのである。
私はKUMIKO先生の体を襲った病気の話しを伺い
治療の苦しさを伺い
一つの大きなくぎりを目の前にして
あきらめなければならない無念さに同調した。
粋なバンダナを巻いたKUMIKO先生からは
与えられた命に向かって
すくっと立ち上がった意気込みが感じ取れた。

窓の外は下校する中学生で賑わい始め
バス停にも
その上にある駅の構内にも
信号機の前にも
元気な笑い声や、ふざけあう声が響き渡っていた。
賑やかにたむろしていた子供たちが
電車やバスにに乗り込み
信号を渡ってきた子供たちが
大きな声でしゃべりながら生垣の向こうを通り過ぎて行った。
又しばらくすると
KUMIKO先生の家の前は沢山の子供たちで溢れた。
私たちの話題はすでに
KUMIKO先生の病気のことからは遠ざかっていた。
音信不通だった間の生き様や
成長し家庭を持った子供たちの話や
長男の嫁同士としてお互い働きながら
逝ってしまった姑を看てきたことや
仕事を退いてから得た時間での読書の話しなど
・・・・・・・
話は尽きなかった。

外では
部活動が終わり家路につく子供たちの声が続いていた。
私は
小さく切られたリンゴを口にし腰を上げた。
門の外まで見送ってくれたKUMIKO先生と
再び近いうちに遊びに伺う約束をして
近くに止めてきた車に向かって歩き始めた。
私は振り返らず帰った。

仕事 仕事 仕事と
仕事ばかりを優先にして生きてきた歳月だった。
私は大切なことをやり残してしまう所だった。
「 人生 棒に振るなよ。 」
主人の一言は 私の心にでっかい釘となって刺さった。
私は 丁寧にいきていかなければならない。
大切に交わっていかなければならない人が
沢山いるはずである。

さんさんと太陽が降り注いでいた。

午後2時
国道に面した洋風のモダンな家の前に立った。
玄関前の交差点では
信号で停まった車が直進したり左折、右折を繰り返し、
エンジン音が途切れることは無かった。
玄関の横にある停留所では
数人の白髪混じりの女性がバスを待っていた。
道路の向こうの高台にある鉄道の駅は閑散としていた。
歩道に添ったフェンスの中では
サツキの植え込みが綺麗に選定され
門扉の前のポーチではベゴニアが風に揺られて首を振っていた。
私は小さなライオン錠を上げて門扉を開けた。
西の庭でシンボルツリーを務めるタイサンボクは
新築の時に植樹され25~6年あまり経つはずなのに
程よい大きさを保ち
大きな葉っぱを秋の陽ざしに向かって広げていた。
南に面した庭には綺麗に刈られた芝生が一面に広がっていた。
芝生の中で緩やかなカーブを描いている白っぽい石のアプローチを
ゆっくりと歩き玄関へと向かった。
居間の出窓の前には程よい高さのヒメシャラの木が
往来からの目隠し役を務めさやさやと風に揺られていた。
新築の頃頻繁にお邪魔していたことを思いだしながら
懐かしい思いでチャイムを押し寸時待った。



玄関先では
カンノンチクやカネノナルキやベゴニアの鉢植えが
丹精込めて育てられていた。
打ち水が施された玄関先は清々しく
客を待つ作法を心得た計らいに心打たれた。
2時間前の私からの電話を受け 部屋を整え 庭先を整え
私という客を待っていてくれた心配りが嬉しかった。

私は作法と無縁で
あくせくと働いて あくせくと暮らしている今の自分を恥じた。
人生棒に振るなよ
と言った主人の言葉が今更ながらよみがえってきた。
もっと丁寧に生きて行かなければ
私はせっかくの人生を棒に振ってしまう。
こんな素敵な作法を自然と身につけている方に
私は20歳後半から30歳前半の頃雇われていたのである。
当時頻繁に訪れたおうちであった。
実に久しぶりの訪問である。
素敵な時間を持てるはずであることに心がときめいた。
私はチャイムに自然と顔を近づけて自分の名を告げた。
「 お待ちしていました。 」と
きびきびとしたハリのある声がして玄関が開けられた。

間もなく70歳を迎えるKUMIKO先生と
私は長い間会っていなかった。
同じ町内に住み歩いて10分の距離に住んでいながら
年賀状だけが私たちをつないでいた。
私より首一つ小さなKUMIKO先生は
凛とした姿勢で私を迎え入れた。
その頭には洒落たバンダナが巻かれていた。
若い頃頻繁に招き入れられた居間には
仕事を退かれたご主人のくつろいでいる気配が感じられた。
玄関横の床の間へと招き入れられた私を少し待たせて
KUMIKO先生はコーヒーを入れるために
キッチンへとさがった。
私は家の間取りがすべてわかっているので
KUMIKO先生の動きが手に取るようにわかった。
わずかな間 窓の外に見とれた。
玄関横の植木鉢の観葉植物が和室から眺めることが出来、
庭の木の葉の上ではちらちらと秋の陽射しが戯れていた。
落ち着いた趣の和室の中は静かな時間が流れていた。
それは取るに足らない短い時間のはずだが
私は満たされた幸せを感じた。

KUMIKO先生は
コーヒーとドライフルーツ
そして一口で食べられるように小さく切ったリンゴで
私をもてなしてくれた。
この春
私は風のうわさで
KUMIKO先生が長年開いてきた塾を退いたことを知った。
そしてその真相を確かめたくて
数回電話を入れたが連絡がつかず
やっとKUMIKO先生と連絡が取れたのは
初夏を迎えようとしていたころであった。
49年という歳月を教室の子供たちを導き
来年は本部から表彰を受ける予定になっていたが
突然の病にやむを得ず指導者の席を退いたことを
電話の向こうから聞かされたのである。
「 遊びに出かけて来てくださいね。」という約束を
私はやっと果たすことが出来たのである。
私はKUMIKO先生の体を襲った病気の話しを伺い
治療の苦しさを伺い
一つの大きなくぎりを目の前にして
あきらめなければならない無念さに同調した。
粋なバンダナを巻いたKUMIKO先生からは
与えられた命に向かって
すくっと立ち上がった意気込みが感じ取れた。

窓の外は下校する中学生で賑わい始め
バス停にも
その上にある駅の構内にも
信号機の前にも
元気な笑い声や、ふざけあう声が響き渡っていた。
賑やかにたむろしていた子供たちが
電車やバスにに乗り込み
信号を渡ってきた子供たちが
大きな声でしゃべりながら生垣の向こうを通り過ぎて行った。
又しばらくすると
KUMIKO先生の家の前は沢山の子供たちで溢れた。
私たちの話題はすでに
KUMIKO先生の病気のことからは遠ざかっていた。
音信不通だった間の生き様や
成長し家庭を持った子供たちの話や
長男の嫁同士としてお互い働きながら
逝ってしまった姑を看てきたことや
仕事を退いてから得た時間での読書の話しなど
・・・・・・・
話は尽きなかった。

外では
部活動が終わり家路につく子供たちの声が続いていた。
私は
小さく切られたリンゴを口にし腰を上げた。
門の外まで見送ってくれたKUMIKO先生と
再び近いうちに遊びに伺う約束をして
近くに止めてきた車に向かって歩き始めた。
私は振り返らず帰った。

仕事 仕事 仕事と
仕事ばかりを優先にして生きてきた歳月だった。
私は大切なことをやり残してしまう所だった。
「 人生 棒に振るなよ。 」
主人の一言は 私の心にでっかい釘となって刺さった。
私は 丁寧にいきていかなければならない。
大切に交わっていかなければならない人が
沢山いるはずである。

Posted by パールじゅんこ at 03:21│Comments(0)