
2016年08月22日
徳島で川遊び 里帰り
徳島の奥深い山の中の渓流でHAYATOは遊んだ。
初体験の「鮎突き」だがとっても様になっていた。






「鮎突き」・・
今は亡き兄が得意だった夏の遊びであった。
見たことも無かった「鮎突き」にHAYATOは夢中になった。



私は60年という歳月を過去へとタイムスリップした。
この深い山の中の村へ20歳過ぎの母は
大阪から疎開してきたのである。
第二次世界大戦終戦間際のことである。
深い山の中の生活を母はどう受け止めて
暮らしたのだろう。
私はこの小さな山奥の村で生まれた。
そして
二人の兄のあとを追って
姉に手を引かれ
沢山いた村の子供たちと
春夏秋冬暗くなるまで野山を駆け回って育った。

多くの村民たちは 不自由な山奥の生活を捨て村を出た。
今では
わずかな人たちが 静かに暮らしているのである。
父や母は祖母の他界と共に
この奥深い山の中の生活を捨てた。
私が中学を卒業するころのことである。
この深い山奥の
空気や 山の匂いや 水の流れ
そして 空の青さや山の緑までも
世界に二つとして無いものとして
私の記憶の奥深くにしっかりと根付いているのである。
今年初盆を迎えた三つ上の兄は
今はもう私と同じ世界にその存在を置かないが
私の記憶の中では
脈々と鮮やかに生きているのである。
兄が得意だった「鮎突き」に・・
村の子供たちが腕を競った「鮎付き」に・・
HAYATOは夢中になった。


懐かしい時間が流れた。
ふわふわとした心を
両手でそっと握りしめてあげたいような
やさしい気持が込み上げt来た。
涙が出るほどの
愛おしく懐かしい時がゆっくりと流れた。
兄はもうこの世にはいない。
しかし
思い出の中で無口な兄が笑っている。
ぶっきらぼうな兄の後ろ姿は決して消えるものではない。
水が流れ
風が吹き
緑が萌え
花が咲き
時が刻まれてきた故郷に私は癒された。

兄のいない家で
義姉は私たちをもてなしてくれた。
当然鮎を持ち帰ることは出来なかったが
収穫した3匹のエビを義姉は塩ゆでしてくれた。

山奥の生活を捨てた両親は
この綺麗な「大里松原」の潮騒の聞こえる町に住まいを移した。
私が15歳のころである。


8月12日 兄の初盆参りのため里帰りをした。
午後7時発 新門司から
翌日午前9時30分 徳島着
オーシャン東急フェリーを利用した。

大浴場に入り
夕食を食べた後
自宅にいるような 快適な夜を迎えた。
しかし
よく早朝 足摺岬沖を航行するころ
大きな揺れを感じ主人は酔い止めを服用したのである。

亡き兄の家で一泊を過ごしたのち
70歳半ばの長兄 二人の義姉 姪っ子から昼食をご馳走になり
室戸岬を回り松山へと向かった。

約4時間弱の道のりで
午後5時過ぎに 松山道後温泉へ到着した。
午後10時発の 松山・小倉フェリーに乗船する前に
道後温泉で汗を流した。

翌朝 5時北九州小倉に到着した。
そのまま 自宅に直行し3時間で自宅に到着。
短い休みが終わり
再び仕事に追われる日々が始まった。
私の心は
すっかりリフレッシュできたが
なんだか 自分の中に老いを感じ始めた。
一つ一つを
しっかり把握して行動しなければ
物がどこへ行ったか解らなくなり探し物が多くなった。
視力が落ち メガネが離せなくなりつつある。
しかし
仕事は私を追いまくる。
これから訪れる老いと向き合った生活が
何だか急に不安になってきた。
まだまだ沢山の挑戦したい事柄が山ほどあるというのに。
好奇心は衰えることがないというのに。
多くの叶えたい夢を抱きしめているというのに。
ばあば ばあば とくっついて離れないHAYATOは言う。
耳元で そっと呟く
「 ばあば きら~~~い。 」と
なんだか 甘~~く呟く
「 ばあば きら~~~い。」と
きらいきらいと呟きながら
私にぴったりとくっついて離れない。
私は長く生きていたい。
苦しいことも 悲しいことも多いが
この愉快な世界の中で。
HAYATOは私の耳元で愉快そうにからかう。
「 ばあば フェリーの中で寝た時 オナラしたよ。
エアー漏れしてたよ。」

HAYATOを囲んだ愉快な世界で
長く生きていたい。
この綺麗な世界で。

初体験の「鮎突き」だがとっても様になっていた。






「鮎突き」・・
今は亡き兄が得意だった夏の遊びであった。
見たことも無かった「鮎突き」にHAYATOは夢中になった。



私は60年という歳月を過去へとタイムスリップした。
この深い山の中の村へ20歳過ぎの母は
大阪から疎開してきたのである。
第二次世界大戦終戦間際のことである。
深い山の中の生活を母はどう受け止めて
暮らしたのだろう。
私はこの小さな山奥の村で生まれた。
そして
二人の兄のあとを追って
姉に手を引かれ
沢山いた村の子供たちと
春夏秋冬暗くなるまで野山を駆け回って育った。

多くの村民たちは 不自由な山奥の生活を捨て村を出た。
今では
わずかな人たちが 静かに暮らしているのである。
父や母は祖母の他界と共に
この奥深い山の中の生活を捨てた。
私が中学を卒業するころのことである。
この深い山奥の
空気や 山の匂いや 水の流れ
そして 空の青さや山の緑までも
世界に二つとして無いものとして
私の記憶の奥深くにしっかりと根付いているのである。
今年初盆を迎えた三つ上の兄は
今はもう私と同じ世界にその存在を置かないが
私の記憶の中では
脈々と鮮やかに生きているのである。
兄が得意だった「鮎突き」に・・
村の子供たちが腕を競った「鮎付き」に・・
HAYATOは夢中になった。


懐かしい時間が流れた。
ふわふわとした心を
両手でそっと握りしめてあげたいような
やさしい気持が込み上げt来た。
涙が出るほどの
愛おしく懐かしい時がゆっくりと流れた。
兄はもうこの世にはいない。
しかし
思い出の中で無口な兄が笑っている。
ぶっきらぼうな兄の後ろ姿は決して消えるものではない。
水が流れ
風が吹き
緑が萌え
花が咲き
時が刻まれてきた故郷に私は癒された。

兄のいない家で
義姉は私たちをもてなしてくれた。
当然鮎を持ち帰ることは出来なかったが
収穫した3匹のエビを義姉は塩ゆでしてくれた。


山奥の生活を捨てた両親は
この綺麗な「大里松原」の潮騒の聞こえる町に住まいを移した。
私が15歳のころである。









8月12日 兄の初盆参りのため里帰りをした。
午後7時発 新門司から
翌日午前9時30分 徳島着
オーシャン東急フェリーを利用した。

大浴場に入り
夕食を食べた後
自宅にいるような 快適な夜を迎えた。
しかし
よく早朝 足摺岬沖を航行するころ
大きな揺れを感じ主人は酔い止めを服用したのである。

亡き兄の家で一泊を過ごしたのち
70歳半ばの長兄 二人の義姉 姪っ子から昼食をご馳走になり
室戸岬を回り松山へと向かった。

約4時間弱の道のりで
午後5時過ぎに 松山道後温泉へ到着した。
午後10時発の 松山・小倉フェリーに乗船する前に
道後温泉で汗を流した。

翌朝 5時北九州小倉に到着した。
そのまま 自宅に直行し3時間で自宅に到着。
短い休みが終わり
再び仕事に追われる日々が始まった。
私の心は
すっかりリフレッシュできたが
なんだか 自分の中に老いを感じ始めた。
一つ一つを
しっかり把握して行動しなければ
物がどこへ行ったか解らなくなり探し物が多くなった。
視力が落ち メガネが離せなくなりつつある。
しかし
仕事は私を追いまくる。
これから訪れる老いと向き合った生活が
何だか急に不安になってきた。
まだまだ沢山の挑戦したい事柄が山ほどあるというのに。
好奇心は衰えることがないというのに。
多くの叶えたい夢を抱きしめているというのに。
ばあば ばあば とくっついて離れないHAYATOは言う。
耳元で そっと呟く
「 ばあば きら~~~い。 」と
なんだか 甘~~く呟く
「 ばあば きら~~~い。」と
きらいきらいと呟きながら
私にぴったりとくっついて離れない。
私は長く生きていたい。
苦しいことも 悲しいことも多いが
この愉快な世界の中で。
HAYATOは私の耳元で愉快そうにからかう。
「 ばあば フェリーの中で寝た時 オナラしたよ。
エアー漏れしてたよ。」



HAYATOを囲んだ愉快な世界で
長く生きていたい。
この綺麗な世界で。

Posted by パールじゅんこ at 01:19│Comments(0)