2024年09月26日
はやと一人旅 タイ3日目 令和6年8月13日
はやと 一人旅 タイ3日目
オプショナルツアー
オプショナルツアー
アユタヤ遺跡 &
ダムヌアン・サドゥアク 水上マーケット
盛りだくさんのツアーです。
早朝 6時に出発
楽しい一日が始まります。
メークロン市場
線路わきに並ぶマーケット
列車が通るとき
テントやパラソルをたたみ
列車が通過すると
商売を再開する。
ダムヌアン・サドゥアク 水上マーケット
エレファントランド
像に乗ってお散歩
ワット・ロカヤ・スターラーム
高さ5m
全長8mの涅槃物(ねはんぶつ)
ワット・ラチャブラナ
ト ワット・プラ・マハター
盛りだくさんの
オプショナルツアーで
満足な一日を過ごしました。
思いがけず
ツアーで仲良くなったご家族と
旅の道連れができ
最高の思い出を
積み重ねました。
Posted by パールじゅんこ at
03:29
│Comments(0)
2024年09月25日
令和6年8月14~15日 タイからの帰路
令和6年8月14日~15日
タイ
はやと 一人旅 帰路
電車で空港へ。
スワンナプール国際空港
令和6年8月15日
午前9時
福岡空港着
はやと 18歳(高校3年)
タイ
一人旅
令和6年8月11日~15日
満喫できたはずです。
はやとからもらった写真で
「るるぶ 情報版 タイ」を片手に
はやとの旅を追跡して
勝手に
はやとのタイ 旅行誌を
作ってしまいました。
思いがけず
旅先で
道連れができました。
オプショナルツアーに参加して
兵庫県のご家族と
仲良くなりました。
異国の地で
ワクワクと心躍る5日間の日々が
はやとの記憶に
積み重ねられました。
はやと 18歳(高校3年)
タイ
一人旅
令和6年 夏
2024年09月21日
はやと一人旅 タイ4日目最終日 令和6年8月14日
はやと タイ一人旅 最終日
ホテル隣接のレストランで朝食
最終日を迎えました。
ショッピング三昧の一日が
スタートしました。
ホテルから
タクシー利用で
大型量販店
「ビッグCスーパーセンター」へ
ショッピングを楽しんだ後
いったんホテルに戻り
お土産の整理をして
再びお出かけ。
== サイアム==
バンコク屈指の繁華街
リバーサイドの
超巨大ショッピングセンター
「アイコンサイアム」へ
アイコンサイアム
サイアムショッピングセンターで
タイ観光を締めくくり
ホテルへと戻った。
帰る時間がやってきた。
荷物を整理して
快適に過ごした部屋を出た。
8月14日
4日間滞在したホテルをチェックアウト。
Posted by パールじゅんこ at
21:08
│Comments(0)
2024年09月21日
はやと一人旅 タイ4日目最終日 令和6年8月14日
はやと タイ一人旅 最終日
ホテル隣接のレストランで朝食
最終日を迎えました。
ショッピング三昧の一日が
スタートしました。
ホテルから
タクシー利用で
大型量販店
「ビッグCスーパーセンター」へ
ショッピングを楽しんだ後
いったんホテルに戻り
お土産の整理をして
再びお出かけ。
== サイアム==
バンコク屈指の繁華街
リバーサイドの
超巨大ショッピングセンター
「アイコンサイアム」へ
アイコンサイアム
帰る時間がやってきた。
荷物を整理して出発。
8月14日
4日間滞在したホテルをチェックアウト。
Posted by パールじゅんこ at
21:08
│Comments(0)
2024年08月29日
はやと一人旅 タイ2日目 令和6年8月12日
令和6年8月12日
はやと タイ 一人旅 2日目
はやと タイ 一人旅 2日目
ぶら~とバンコク観光
相鉄グランド フレッサバンコク
アユタヤ時代に建立された歴史ある寺院
ワット・パクナム
最上階5F 天井画とガラス塔
5Fの展望テラスから
相鉄グランド フレッサバンコク
タクシー移動
アユタヤ時代に建立された歴史ある寺院
ワット・パクナム
最上階5F 天井画とガラス塔
5Fの展望テラスから
高さ80mの大仏の背中が。
バイタクで移動
ワット・アルン
ワット・アルン
ター・ティアン船付場
ワット・ポー
船で移動
ワット・ポー
タクシーで移動
ルンピニ公園
ワニに遭遇
地下鉄駅前
地下鉄で移動
ルンピニ公園
地下鉄
ホテル
ホテル隣接のレストラン
豪華ディナーで フィニッシュ
令和6年8月12日
タイ 2日目
自由気ままに バンコク 終了
ホテルで洗濯を済ませ
明日の出発は早朝なので
早めに就寝。
Posted by パールじゅんこ at
23:29
│Comments(0)
2024年08月28日
はやと一人旅 タイ初日 令和6年8月11日
令和6年8月11日 午前9時40分
6月に18歳の誕生日を迎えた
高校3年生のはやとは
福岡空港の出国カウンターの前にいた。
早朝6時に家を出て
主人に佐世保駅まで送ってもらい
念願の海外への一人旅を始めたのである。
はやとの写真から
タイへの旅行を同行した気分に
浸ってみよう(#^.^#)
11日午前9時40分
はやと 高校3年生
6月に18歳の誕生日を迎えた
高校3年生のはやとは
福岡空港の出国カウンターの前にいた。
早朝6時に家を出て
主人に佐世保駅まで送ってもらい
念願の海外への一人旅を始めたのである。
はやとの写真から
タイへの旅行を同行した気分に
浸ってみよう(#^.^#)
11日午前9時40分
11日12時 出発
タイに向かって6時間
快適な空の旅が始まった。
時差2時間
バンコク到着
入国手続きも簡単に終わり
タイへの第一歩がスタートした。
空港から電車に乗り
途中で
地下鉄に乗り換え
ホテルの近くの駅に到着。
スーツケースを引きながら
トコトコと歩いて7分。
ホテル到着
もちろん 問題なくチェックイン。
ぶら~~と夕食に
綺麗なタイの夕日を見ながら夕食。
タイ 初日が
問題なく快適に過ぎていった。
タイ 一人旅
8月11日~8月15日
Posted by パールじゅんこ at
03:22
│Comments(0)
2024年08月15日
はやと タイからの帰国路
8月14日 午後9時50分
タイで一人旅を楽しんでいるはやとに
ラインを送った。
タイは午後8時前のはずである。
時差が約2時間あるタイの時間で
8月15日 午前1時に
はやとの乗る飛行機は出発するのである。
最後の時間までホテルが使えるように
宿泊はしないが
14日から15日までも
宿泊予約を取っているので
まだホテル周辺で夕食をとって
ホテルの部屋で
帰り支度をしているだろうと
考えたから
「晩ご飯 たべたの?」とおくった。
「晩ご飯は空港で食べる。
今 電車で空港に向かっている。」
と返ってきた。
電車で・・・・。
文字も読めないはずの
遠い異国の街で
スーツケースをころころと引きながら
チケットを買い
電車に乗り込むはやとの姿を想像すると
私の胸は躍った。
異国の地で高校3年生のはやとは
一人ぼっちで
自ら行動を起こしている。
私が
旅先で望んでいたが
やり遂げることがことができなかった
体験を
はやとは自ら積み始めた。
日本時間
8月15日 午前2時
(タイ時間 12時)
「あとは出発をまつだけ」と
はやとからのラインが届いた。
タイの街で
バスを使い
タクシーを使い
電車を利用し
観光を楽しんだはやとは
間もなく帰国に向けての搭乗の時間が
来たはずである、
日本時間
8月15日 午前2時43分
ラインと写真ガ届いた。
「 今 乗り込んだ 」
タイ時間
8月15日 午前1時
飛行機は離陸する。
2024年08月12日
はやと 念願の一人旅 タイ4泊5日
令和6年8月11日
午前11時
仕事中の私に
はやとからのラインが届いた。
福岡空港から
タイへと一人旅に出発する
はやとからのラインだった。
午前11時10分
「今から 搭乗開始」
はやとは
令和6年6月末に
18歳の誕生日を迎えた。
18歳未満では海外で
未成年が一人での宿泊が不可能という
壁があったため
今年の正月 高校2年生のはやとは
一人旅を望んだが
シンガポールに一人では行けなかった為
母親であるみいを説得してでかけた。
団体行動が嫌いなみいとは
最小限の摂食しかせず
一人旅も同然のシンガポールで
二人は
それぞれに楽しんできた。
はやとは
18歳を迎えるのを指折り楽しみにして
学校以外の時間を
すべて私の職場に出向いて
業務を手伝ってくれていた。
船舶の修理業の一部で
今
養殖業での
ロープを巻き上げる機械の開発にも
取り組んでいるので
工業系出身の主人が
社長の考案の元 商品を図面化させ
溶接を習ったはやとが
溶接を担って製品を誕生させ
船への取り付けも行った。
改良を重ねてきた製品である。
今回
はやとがとりつけたこのローラーは
作業現場でスムーズな働きが出来たら
社内オリジナル製品として
量産に踏み切る予定である。
超零細企業のわが社では
様々な修理の仕事に
追いまくられる日々が続いた。
インドア派なのに汗だくになって
日焼けを悩みながら
常にはやとに寄り添う
主人の姿があるのは言うまでもない。
船に装備されている機械の脱着のための
クレーンの操作。
船解体のためのパワーショベルの操作
船を船台から上げ下げするための
スイッチの操作。
などなどの雑用が多々。
若いころ取得した建設機械の免許が
年老いた今になって
こんな形で役に立つとは
主人も想像もつかなかったことだろう。
公務員として務めて退職した主人が
70歳前になって
汗だくになり 汚れながら
わが社の社員でもないのに
ボランテイアで
はやとを支えている。
クレーンやパワーショベルを扱う
主人を見て
常にはやとは口にする。
「じいじ
楽しそうに頑張ってるね 」と。
高校3年生のはやとは
通学日以外は
当たり前のように
故障した船の機関室に入り
エンジンを修理し
早朝より貸し船のお客様の出港を見守り
旅行の日を指折り数えて
過ごしてきたのである。
8歳で取得したパスポートが
2回目の更新時期を迎えていたので
6月28日誕生日をまって
18歳になったはやとは
パスポートを10年に更新した。
さらに
本人名義のクレジットカードを
作ることができた。
これは
一人旅を計画立てたはやとにとって
大きなプラス面となった。
傷害保険の加入
現地でのオプショナルツアーの申し込み
などなど・・・・
8月11日から15日
タイへの一人旅
学業と
私の仕事の手伝いに
真面目に向き合ってきたはやとは
この旅行を
一人で計画を立てた。
私ははやとの計画の内容を
把握することはなかった。
私がはやとにアドバイスしたのは
「少しのお薬を スーツケースじゃなくて
自分のバックに入れて持ち歩きなさいよ」
と
「カードは使えないところが多いので
一日分のお金を財布に入れて
残りは肌身につけて持ち歩きなさい」
の2点だけだった。
服の下に装着してマジックテープで止める
薄べったい紙幣入れを渡した。
「 黄ばんでるね 」と言いながら
素直に受け取った。
8月11日早朝
私はみいに代わって
はやとと主人の朝ご飯を作り
4時40分
二人を起こした。
仕事のため
私は5時に家を出なければならなかった。
はやとは
午前6時 家を出発して
主人からJR佐世保駅まで送ってもらった。
自宅から佐世保駅まで
自家用車で約30~40分かかる。
佐世保駅から7時発の電車に乗り
博多へ向かい
国際空港に移動し
11時30分のタイへの
直行便に乗るのであった。
主人と朝ご飯を食べるはやとに
「お土産話 いっぱい持って帰ってね」
と声をかけて出勤した。
私は
はやとがどんな服装で
どんな荷作りをしたのかも
知らなかった。
10年前から
一緒に海外旅行に出かけてきたはやとは
我が家のやり方の全てが身についていたので
何の心配もなかった。
コインランドリーのあるホテルを選び
洗濯もその都度済ませてくることも
しっかり身についていた。
私は
なんの心配もなかった。
が
出発数日前
お盆前なので家族でお墓参りに行き
亡き義父や義母
そして主人の弟の眠る墓に向かって
はやとの横で声に出して手を合わせた。
「 はやとが一人で旅行に行きます。
見守ってくださいね 」と。
11日の朝
朝ご飯の食卓に向かうはやとに向かって
「 お盆だからね
ご仏壇に手を合わせてから
出かけなさいね。」
一緒に食卓に向かっている主人にも頼んで
私が先に家を出たのである。
「おとうさん はやとにお参りさせてね」と。
午前11時10分
ラインに写真が届いた。
「 今から 搭乗開始 」
日本時間 5時31分
タイ時間 約3時30分
「 入国と 荷物受け取り完了
入国もあっさりおわり 」
一人でのチェックインも
お得意の英語で
難なく通過したはずである。
送られてきたラインには
一人なのに
ツインの広い部屋が映っていた。
18歳の一人旅なので
路頭に迷わないように
飛行機のチケットと
信用のおけるホテル予約だけは
はやと自ら旅行会社の窓口に出向き
手配をしてもらっていた。
日本時間 午後8時40分
タイ時間 約6時40分
届いたラインには
食事に出かけたレストランの窓からの
綺麗なタイの街が映っていた。
時差が2時間あるので
タイは6時40分頃日の入りを迎えていた。
どんなレストランで
どのようにして料理を頼んだのかな・・
はやとのコメントが添えられていた。
「フードコートやけん
軽めに食べて二軒目に行く」
日本時間 午後9時16分
タイ時間 午後7時10分過ぎ
「 食後のデザート マンゴー 」
68歳 疲れ果てた私は午後10時
はやとの行動のラインにはついていけなかった。
「 おやすみ 」 コールを入れた。
仕事を終えた7時30分
綺麗な夕焼けが空に広がっていた。
年中無休の職場のため
お盆とお正月だけは
しっかりと長く休業にしている。
今年は
11日から16日まで休業にしているが
私だけは
事務処理を片付けるため
相変わらず仕事に
追われる羽目になっている。
はやとは
タイ旅行から帰り
2学期を迎えた日
わが社の代表取締役に就任するのである。
沢山の方が
「自分の周りでは
高校に行きながらの代表取締役は
前代未聞」
という言葉を添えながら
諸手続きが進められている。
はやとが
このチャンスを自分のものにして
大きく生かして
人生を歩んでいきますように。
商売の大変さは
身に染みてわかっている私なので
決していいことばかりが続かないだろうが
悪いことも続かないはずである
と 若いはやとに心配が尽きない。
ただ
今日この時は
まだ少年のはやとが
平穏で夢に満ちて幸せでありますように。
2024年07月02日
災難を乗り越えた後の希望に満ちた道
ただいま68歳進行中!
やっぱりしぶとい
身体に起こった異変に
持ちこたえることができた。
梅雨を迎えた朝
娘からのプレゼントの合羽を着て
日の出とともに出航していく釣りのお客様を
見送った。
背中をかばいながら。
日の出前から
私といっしょに出勤して
貸し船の出航のお手伝いをしてくれている
はやとと共に一日が始まった。
5月中旬
このたくさんの貸し船を前に
私は落胆していた。
16隻あるこの貸し船を
お客様が使用した後
掃除をし
燃料を補給しなければならない。
平日は船の貸し出しが少ないので
アルバイトがいない。
私を見るに見かねた主人が
手伝ってくれて
高齢者二人で
燃料補給と掃除をおこなっている。
私は
自分の年を忘れて働いている。
いや
働いていた。
そんな5月中旬
重量物を運んで仕事をした。
そのことによって
急に背中に違和感を覚えた。
腰と背中にまったく力が入らなくなって
しまったのである。
歩けなくなった。
背中に力がなく
直立できない。
数メートル歩くのに
言いようのない負担を体に感じた。
腹と背中が骨を支えられない・・・・
そんな風に感じた。
痛みは全くなかった。
ただ事ではない・・・
笑いごとでもなかった・・・
私は家族に進められて
整形外科を受診した。
「 歩けないんです。 」と
症状を告げた私に
かかりつけの労災病院の
整形外科の若い女医は言った。
「 歩いてきたじゃないですか 」
なるほど
誰が見ても歩けている。
だが
やむをえず歩いているだけである。
直立が異様に困難だった。
立っているのが苦痛だった。
歩けない !!
私は
レントゲンもMRIもとって診てもらった。
はっきりとした原因はつかめなかった。
「強いて言うならば
腰の周りの血管が狭くなっているので
しばらく薬を服用してみてください。
薬に即効性がないので
1か月半くらい服用して
様子を見てみましょう。」
歩けない
腹と腰と背中に必死に力を入れて
体を保ち
女医に頭を下げて
病院の中を必死で歩き諸手続きを済ませ
駐車場の車に乗り込み
自宅に戻った。
忙しい中
植えた花が
玄関先で見ごろをむかえていた。
私は
まだまだ働けると考えていたので
この時点で
自分の体に起こった異変に
落胆していた。
このまま
腰が極端に曲がってしまい
歳を取ってしまうのかな・・・と
悲しかった。
こんなはずではなかった・・
心の中で
無念な気持ちが
大きく 大きく 膨らんでいった。
無念な気持ちは
大量の涙といっしょに
あふれ出してしまいそうだった。
明るい昼間の時間に
自宅で過ごすことができなくなってしまった
私の目に
たくさんの実をつけた柿の木が
優しくささやきかけてきた。
とても頑張って働いてきたので
もう
良いんじゃないのと
慰められたように感じた。
まもなく70歳だよ。
おばあちゃんだよ。
初冬を迎えるころには
たくさんの干し柿を作れるよ・・・
のんびりと
庭の手入れをしたり
ゆったりと家事をこなして
自宅で
平和に過ごせば良いんじゃないのと
ささやきかけられたように感じた。
一人勝手に
弱い心に逃げ込んだ。
自慢の庭は
あまりにも
仕事ばかり強いられているうちに
たくさんの雑草が
生い茂っていた。
歩くのがとても辛かったが
早朝より
お店を開けないわけにはいかなかった。
受診した翌日から
再び
日の出に間に合うように出勤すると
駐車場では
すでに多くの釣りのお客様が
出航の準備を進めていた。
午前5時10分を少し過ぎたころ
ほとんどの船が
出航していった。
相変わらず
沢山の雑務に追われ一日が過ぎていった。
おもい体をいたわりながら
泣きたい気持ちをこらえ
主人に助けられながら
仕事に精を出していた。
毎日とても平和に暮れていった。
平戸の島に傾く綺麗な夕日を
見送る日が続いていた。
早めに仕事を終わらせた夕方。
自宅近くの整骨院で治療を受けた。
そこで
ストレッチを勧められた。
朝目が覚めた時
目覚ましをとめて布団の上で
3分ほど
指導を受けたストレッチをおこなった。
昼食後の15~20分ほどの
ひと眠りの後
体を横たえたまま
同じストレッチをおこなった。
筋肉を整えるしかないのかな と
私は
藁にもすがる思いだった。
ここで
年齢を理由に
挫折するわけにはいかなかった。
毎日 真剣に
適度に 無理をせず
指導を受けた方法でストレッチを続けた。
それは
火を見るよりも明らかであった。
私は
背中に力が入らず歩けなかったことを
短期間に克服できたのである。
この場に及んで
私はまた神様にすがってしまった。
「 神様
もう少しだけ私を働かせてください。
その後
少しだけでいいから
主人と共に
自宅でのんびりできる時間を
私の生涯に残しておいてください。」と
新しい朝が始まり
雲がゆっくりと流れていった。
私には
この時点で
仕事を退けられない大きな理由があった。
18歳を迎えたばかりの孫
高校3年生のはやとを
3か月後に会社の代表取締役に
就任させようと考えた。
32年務めた超零細企業の株を
過半数以上所持している私だが
代表取締役として
世間の表面に出る人間ではない。
そんな器の人間ではない。
へそが 茶をわかすよね。!(^^)!
はやとが
高校を卒業すまで待って
大人になるのを待って
はやとに会社を託そうとしていたが
この半年
はやとは目に見張る成長を遂げていた。
年老いていく私を気使い
高齢の先代社長が透析治療を始めたという
現実をしっかり捉え
自らの意思で
会社の業務を手伝い始めたのである。
私は
真剣に
高校生のはやとを社長の座を譲ろうと考えた。
何回にも及ぶ話し合いを
はやとと交わした。
はやとには異論がなかった。
素直で誠実で根気のあるはやとは
会社を
立派に継続していくだろう確信が持てた。
2024年05月04日
娘の摂食障害を乗り越えて。
我が家は
嫁いだ娘の摂食障害という病気を抱え
苦しい時間を強いられていた。
沢山の方に支えられ
はげまされながら
大きな試練を乗り越え
一歩 前に踏み出した。
2014年 2月 東京
摂食障害で
何回も入退院を繰り返し
生死の狭間をさまよったみいは
記憶喪失を患い
この時
「 高次脳機能障」と診断されていた。
はやと 小学1年生
知人と共に7名で東京見物に出かけた。
私は
みんなの心配と反対を押し切って
はやととみいを二人っきりで
ディズニーランドの入場門の前でおろし
東京湾アクアラインへと
ドライブに出かけた。
みいが
当たり前のことができるか否か
周りはもちろん
母親である私にもわからなかった。
みんなから
「無謀だ」と言われながら。
「何かあったら ばぁばに連絡しなさいね」と
はやとの首に携帯電話をかけて別れた。
私は
今日のために
みいとはぐれたとき
どうすればいいのかをはやとに教えこんだ。
千葉~東京湾アクアライン~東京を
ドライブを楽しんで
再びデズニーランドに戻った。
一度だけ
はやとから電話が入った。
なんの問題もなく
みいと遊んでいるのが伝えられた。
二人を車から降ろしたときに
約束した場所で
きちんと約束した時間に
みいとはやとは笑顔で待っていた。
あれから10年の歳月が流れた。
私たち家族は
みいの病気で
苦しくつらい時期を乗り越えてきた。
楽しみを見つけて暮らしていこうと
懸命に働き
様々なところへと
旅行に出かけ
かけがえのない思い出を積み重ねてきた。
2015年2月 ベトナム
2016年1月 マレーシア
2017年1月 オーストラリア パース
2017年1月
オーストラリア パース ~
シンガポール経由 ~帰国
2018年1月 ニュージーランド
2019年1月 オーストラリア ダーウイン
ダーウィン ~ シンガポール経由 ~ 帰国
世界各国へと飛び立つ飛行機を見ながら
「まだ 帰りたくないね・・・。 ばぁば」
とつぶやいたはやと。
どこへ出かけても
旅行の最後の日
帰国の飛行機の出発を待つとき
はやとは
必ずと言っていいほど
この言葉を口にしてきた。
現実離れした楽しい旅先の日々を
終わらせたくない思いは
幼いはやとの胸の中も
年老いた私の胸中も同じだった。
2020年1月 台湾
時代と共に
搭乗手続きが進歩していった。
はやと中学1年生
台湾旅行から帰国した数か月後
コロナという大病が世界中を震撼させた。
家族そろっての海外旅行が
数年間
閉ざされてしまった。
その間
はやとは高校2年生になった。
人々は
再び世界へと旅に出かけるようになった。
「俺 一人で海外両行する。」
と言い出したはやと。
17歳という年齢制限に阻まれたため
母親のみいを誘って
シンガポールへと出かけた。
2013年12月~2014年1月
はやと 高校2年のお正月。
これまでの体験は
しっかりと
はやとの脳裏に刻まれていて
成長したはやとは
一人で行動を起こせるようになり
私たち夫婦と
行動を共にする必要がなくなった。
ゆっくり流れた月日は
みいはすっかり回復させ
なんの問題もない生活を
送るようになっていた。
私は
心底 ほっとした。
肩の荷が下りたように思えた。
今から12年前 2012年4月
みいは病院のベットの上で
記憶をなくしたまま
数日間の眠りから目を覚ました。
記憶をなくしていたなかで
幼いはやとの手を握りしめた。
自分が母親であることを忘れていた。
みいがはやとを握りしめたのか
はやとがみいを握りしめたのか・・
重い重い摂食障害を患い
何度も命の灯を消しそうになりながら
どうにか命を繋いでいたさなか
尿路結石まで併発し手術に及んだ。
体重22kgほどの体で受けた
手術の翌朝
みいは意識が戻らなかった。
数日後目を覚ましたみいは
記憶を失い
ベットの上で
母親である私を大声でののしり拒んだ。
1か月ちょっとの闘病生活を送り
記憶が定かでないまま
病院から退院を強いられた。
新緑が目にまぶしい
とてもきれいな初夏の日に
みいを病院から自宅へと連れて戻った。
これも
周りから大反対をされての私の行動だった。
とにかく
生活していかなければならなかった。
生きていかなければならなかった。
なにか楽しみをみつけながら・・・。
その第一歩を
ハウステンボスのビィラで一夜を明かし
雨の日のハウステンボスですごした。
みいは
どこまで息子を息子として
認識しているのか・・・
自分が母親であることを解っているのか
外部にはわからなかった・・・・
しかし
二人の間が
あたたかいぬくもりで繋がっているのは
間違いなかった。
そして
時間はゆっくりと流れた。
私には
みいが正常に回復していくのか
このままなのか
まったくわからなかった。
しかし
たくさんの方々に包まれて
ゆっくりと沢山の時間は流れていき
みいは
ゆっくりと回復していった。
何よりも
はやとが
心身ともに成長を積み重ねていった。
大きくなったはやとは
みいに気使い
みいを思いやりながら
新たな日々を展開していくはずである。
長い年月だったように思えるみいの闘病生活は
過去の笑い話になった。
私と主人は
二人に 愛情を注いでいくだけで
十分となった。
差し出す手は必要がないように感じられた。
今
摂食障害の娘さんを抱えた
お母さまへ。
親として
出口のない苦しい時を
過ごしているかもしれませんが
どうか
娘さんの病気から目を離し
ともに楽しめることに目を向け
ゆっくりと
時間を流してみてください。
長い年月が必要かもしれませんが・・
きっと
笑い話にできる日がやってくるはずです。
2024年03月25日
令和6年シンガポールでの はやとみいの年明け
令和6年
1月が過ぎ
2月があっという間に過ぎ去り
3月も間もなく終わろうとしている。
季節はアッという間に春になった。
今でも 時々
みいがシンガポールで買ってきた食材が
我が家の晩ご飯の一品に加わり
食卓を賑わせている。
「おれ 一人で外国に行ってくる」と
突然計画を立て始めたはやと 17歳の秋
18歳未満だったため
ホテルの宿泊が不可能。
一人での飛行機のチケット購入のため
大変な手続きが必要だったため
母親のみいに同行を求めた。
団体行動が苦手なみいは
はやとの
「一人で旅をしたい」という願いを叶えるには
ぴったりの相手だった。
12月30日から1月3日までの
シンガポールへの旅行中
みいとはやとは
食事も行動も
ほぼ別行動をとっていた。
はやとのために
シンガポール旅行に付き合ったみいは
ホテルで
我が家で日常生活を送るように
過ごしてきた。
みいの
旅行スタイルを知り尽くしている私は
みいのために
大小のショッピングセンターが集まる
オーチャードのヨークホテルを進めた。
はやとが一人気ままに観光してる間
みいは みいのスタイルで
公園やホテルの周りを散歩したり・・・
頻繁にスーパーマーケットに出かけ
日常生活用品を買ったり・・・
お土産をかったり・・
ホテル内のフィットネスセンターで
汗を流したり・・・
デパートでショッピングを楽しんだり・・・
繁華街をぶらぶら・・・
自分の住む町で
主婦として過ごすように
ぶらぶらと
ホテル周りを散策し
日常生活用品や食材を買ったり
のんびり時間を費やした。
のんびり時間を費やした。
2023年12月30日から
2024年1月3日までの
シンガポール旅行で
みいとはやとは
ナイトサファリだけを行動を共にした。
たくさんの食材や日用品の
買い物を楽しみ
みいは
はやとの突然の思いつきに付き合い
異国の地で息抜きをしてきた。
令和6年1月3日
深夜出発のため
閑散とした空港内で
最後のシンガポールの空気を
楽しんだみい。
二人っきりで出かけた旅は
あっという間に終わったのである。
あれから
我が家の食卓は
シンガポールの食材で
賑わった。
シンガポールのヌードル
炊き込みご飯の素
小さな豆で作ったあんこ
子魚の干物
ピンクの食塩
カヤジャム
日用品などなど・・
ティッシュペーパー
石鹸
手つくりのゼリーは
はやとのお弁当が華やいだ
3ケ月経った今も
思い出したかのように
シンガポールの食材でつくった料理が
食卓を賑わせている。
何回も
生死の狭間をさまよったみいだったが
10数年という歳月は
すっかりみいを回復させてくれた。
はやとは成長し
一人で すくっと立ち上がった。
知らない海の向こうの国に
興味を持ち
誰の手も借りず
旅に出ることができるようになった。
10数年前大病を患ったみい
幼かったはやと
無我夢中で過ごしてきた歳月だった。
10数年という歳月の中で
私は二人の成長に対して
みいの母親として
はやとの祖母として
ひとつの役目を果たせたような気がして
肩の荷を下ろせたような思いに駆られた。
新しい春が訪れ
家族に新しい節目が訪れた。
2024年02月07日
はやと シンガポールより帰国
令和5年12月30日
から
令和6年1月3日
までの
福岡発 韓国経由
はやととみいのシンガポール旅行
帰国の時がやってきた。
朝から
朝から
まったくの別行動をとっていた
みいとはやとは
約束どおり午後4時ころ
ヨークホテルに戻った。
お土産をバッグに詰めて・・・
シャワーを浴びて・・・
午後9時
ヨークホテルから
タクシーでチャンギ空港へと向かった。
チェックインも
出国審査も
手荷物検査も
なんの問題もなく
一人でも
手続きが出来るようになったはやと。
楽しかったね。 みい。
(実は みいは 海外旅行のベテランさん)
息子と二人で
シンガポールに行ける機会を与えられるなんて
神様も
なかなか
粋な計らいをしてくれるもんだよね。
「俺 一人で外国に行ってくる!」と
言い出したはやとだが
18歳になっていなかったので
外国への一人旅が不可能だったが為に
母親のみいが同行した
二人っきりの今回の旅行。
二人ともほぼ 別行動をとったので
はやとの願いは
叶えられたようである。
帰国の空の旅が始まった。
==令和6年1月3日==
シンガポールチャンギ国際空港発
午前1時30分
韓国インチョン国際空港着
午前8時50分
韓国インチョン国際空港発
午後1時10分
福岡空港着
午後2時30分
チャンギ空港 チェックイン
大韓航空 シンガポール発
シンガポール チャンギ国際航空から
韓国ソウル インチョン国際空港まで
6時間の深夜の空の旅が始まった。
大韓航空 機内食
韓国ソウル インチョン国際空港着
韓国ソウル インチョン国際空港発
福岡空港着
おかえりなさい
はやと 高校2年生
世界への旅の第一歩は大成功
ばぁばこと 私は
はやとの写真から
勝手にはやとの旅を追跡して
旅行記をしたためて
自己満足
2024年02月03日
はやと シンガポール気ままに最終日
令和6年1月2日
そのまま胸躍らせて
はやと 17歳(高校2年)
一人気ままにシンガポール
青空が顔をのぞかせて
旅の最終日がスタートした。
令和5年12月30日からスタートした
シンガポール旅行が
最終日を迎えた。
シンガポール旅行が
最終日を迎えた。
ひとり旅を望んだが
18歳未満だったはやとは
一人での海外旅行が不可能だったので
母親みいを誘って
シンガポールにやってきた。
ナイトサファリだけ
親子二人で行動を共にしたが
その後は
ふたりとも念願どおり
まったく単独行動だった。
空港での行動も・・
食事も・・
観光も・・
ショッピングも・・
今日もそれぞれ気ままに
一日がスタートした。
母親から束縛も干渉も全く受けず
はやとは
異国の地で爽やかな朝を迎え
ヨークホテルでの朝食をとらずに
ひとりホテルを出た。
シンガポール最後の朝は
ヨークホテルの近くのカフェで
地元の人に交じって
ひとりでモーニング
シンガポール朝食の定番メニュー
カヤ・トーストを注文
カヤ・トーストとは
ココナッツミルク 卵 砂糖を混ぜた
カヤジャムと
厚く切ったバターを挟んだ
甘いトースト
そのまま
シンポール最後の日の観光に出かけた。
スカイガーデン
ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
スーパーツリー・グローヴ
ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
メコンオオナマズ
まるで
おもちゃの街のような
カトンの街の
「クーン・セン・ロード」を散歩
昨日遊覧した
シンガポール・フライヤーが
青空に映えていた。
屋台でお昼ご飯
マリーナベイ・サンズ
西方面の展望
東方面の展望
展望デッキから
東方面の展望
展望デッキから
北方面の展望
サンズ・スカイパーク展望デッキ
ショッピングモールを
くる~~と散策
~~
シンガポールの観光が
名残惜しく
とっても
名残惜しく
終わってしまいました。
駆け足での観光を
英語ガイドマーガレットさんの車に
お世話になりました。
マーガレットさんとの会話も
楽しむことができ
外国への旅に
さらに楽しい思い出と
英会話の自信が加わりました。
マーガレットさんと別れ
ホテルの近くでぶら~~とショッピング。
ホテルに戻って
帰る準備をしないといけない時間が
やってきました。
とっても
残念だが・・・。
2024年01月29日
はやと シンガポールで新年スタート 2024年
シンガポールを旅したはやとから
沢山の写真をもらった私は
その写真から
勝手にはやとの旅を追跡した。
カウントダウンの興奮が
沢山の写真をもらった私は
その写真から
勝手にはやとの旅を追跡した。
カウントダウンの興奮が
冷めないままに
2024年がスタートした。
2024年がスタートした。
はやとは17歳 高校2年生である。
ひとり気ままに
シンガポールの街の見物を
楽しんだ。
令和6年1月1日
シンガポール・フライヤー
世界最大級の観覧車
高さ 165m 一周30分
ゆっくりとゴンドラが上がり始めた。
一基 28人乗りのゴンドラは
はやとと
中国人の家族だけを乗せて
ゆったりと上り始めた。
はやとはひとりで
眼下に広がる
壮大な景色を眺めた。
広大な
ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ
有名なホテルや
ショッピングセンターや
マンションが立ち並ぶ街の様子
マリーナベイ・サンズや
高層ビルやマリーナ湾
30分間の
空中遊覧は
あっという間に終わった。
マーライオンパークへと足を運んだ
マーライオン・パーク
マリーナ・ベイを見渡す
高さ8.6mの マーライオン
ミニマーライオン 2m
チャイナタウン
チャイナタウンで ランチタイム
街をぶらぶらと観光した後
夕方早めに
いったんヨークホテルへもどり
はやとは
気ままに別行動を楽しんでいるみいと
二人で
ナイトサファリへと出かけた。
ナイトサファリ
開演前にディナーを
トラムに乗って
ジャングルを探検
夜の動物園を
ゆっくりと楽しんでから
タクシーでホテルへ帰宅
ヨークホテルの近くをぶら~~~と。
シンガポール2日目が
アッという間に過ぎていった。
ヨークホテル
まったく別行動だった
はやととみいだが
ナイトサファリだけは
二人一緒に出掛けた。
母と息子の
二人っきりの夜の動物園は
二人の人生で
最初で最後の出来事であるはず。
いつまでも
二人の心に残っていますように
2024年01月23日
はやと 2024年にカウントダウン
はやとの写真から
はやとの旅行を勝手に追跡
はやとの沢山の写真とともに
私の心もシンガポールへと
旅をした。
12月31日
海鮮と地元名物の露店街で
ディナー。
ヨークホテルに戻り一休み
はやとは一人で
ホテルからタクシーで
クラークキーへと向かった。
念願の
カウントダウン クルージングの時が
やってきた。
クラークキー
ナイトクルーズ
午後11時 スタート
シンガポール川をクルージング
花火とともに
2024年への
カウントダウンが始まった。
2024年(令和6年)
1月1日 0時
新しい年が始まりました。
1月1日 0時30分 帰港
アプリでタクシーを予約したはやとは
約5分で
ひとり 深夜に
ヨークホテルへと帰った。
はやとは
ひとりぼっちで
胸を躍らせ
瞳を輝かせ
異国の地で新しい年を迎えた。
17歳(高校2年生)
はやとに冒険の年が始まった。
不思議と
私は
はやとの感動を共に味わうことができた。
シンポール川の夜の優しい風も
胸の奥深くに響いてくる花火の音も
まるで
その場にも
自分がいるように感じることができた。
それは
とても不思議な感覚だった。
家族の喜びは
私の喜びであり
家族が幸せでいることは
私の一番の幸せであることが
こういう感覚なのだと
しみじみと思えた。
2024年01月22日
はやと 一人気ままにセントーサ島
シンガポール
令和5年12月31日
令和5年12月31日
曇り 時々雨
はやとは
一人ぼっちで
バイキング形式の朝食を済ませた。
初日の観光は
セントーサ島を予定していた。
今夜は
カウントダウンクルーズに出かけるので
少し早めにホテルに戻り
休んでから
夜の街に出かけるという
スケジュールを組んでいた。
これははやとが
一人で真っ先に予定を立てて
チケットを購入したプランである。
アクティビティ・パラダイス
セントーサ島で
初日の観光が
快適にスタートした。
・・・ようである。
世界最大級の水族館
シー・アクアリウム
オープン・オーシャン・ハビタット
幅36m 高さ8.3m
世界最大級のアクリル水槽
コーラル・ガーデン
高さ8m 直径7m
円柱状の水槽に
カラフルな魚とサンゴ礁が共存
時が経つのも忘れて
カラフルな魚を見学して回った。
午前10時から12時まで
ゆっくりと
水族館 シー・アクアリウムで過ごした。
パームツリーが繁る
シロソ・ビーチ
スカイライン・リュージュ・セントーサ
森の中のサーキットを
カートに乗って滑走。
セントーサ島を遊びつくし・・・
遊びたらないが
まだまだ
観光したいところが盛りだくさん
ディナータイム
腹ごしらえの後
いったん ホテルに戻ります。
楽しみにしていた
カウントダウンに出かけるために
ホテルで小休憩
みいは 部屋に帰ってきているかなぁ・・・
2024年01月20日
シンガポール はやとの写真とともに
「たくさん 写真を撮ってきてね」と
シンガポールに旅立つ
はやとに言葉をかけて
福岡国際空港前の路上で
見送った。
はやとの写した写真とともに
勝手に
はやとの旅を追跡した。
大韓航空 (KE)792便
大韓空港が雪の影響で
1時間ほど遅延して
15時10分
12月30日
18時35分
0時10分
1時間ほど遅延して
福岡空港を出発した。
1時間以上遅れて
ソウル インチョン国際空港着
12月30日
大韓航空(KE)0645便
予定より1時間ほど遅れて出発
ソウル インチョン国際航空発
シンガポールへ
12月31日
この到着も当然1時間遅れ。
シンガポール チャンギ国際空港着
12月31日
念願のシンガポールの朝
シンガポール
ヨークホテルでの朝食バイキング
案の定
同行のみいとは
行動範囲が違うため
接触することが無かったらしく
念願のはやとの
一人ぼっちの旅行が始まった。
12月31日 終日
セントーサ島観光
2023年12月31日
ふたりの旅立ち
令和5年12月30日
はやととみいが二人で
シンガポールへと旅立ったのは
暖かい冬の朝だった。
午前8時
午前8時
はやととみいのスーツケースを乗せて
主人の運転で
家族4人 自宅を出発した。
10時30分
福岡空港 国際線ビルに到着
お茶目なみいの姿があった。
今日を待ちわびていた
はやとの笑顔があった。
二人っきりの旅立ちの日は
真冬だというのに
とても優しい暖かさに
包まれていた。
はやとは
振り返ることはなかった。
みいを
気使いながら
福岡国際空港
3階ターミナルに入った。
二人とも
軽やかに
振り返ることなく
ビルに入っていった。
二人の気持ちが
前を向いているのが
私に
ありありと伝わってきた。
二人には
出発のために
空港でどうすればいいのか
身についていることが
私には
はっきりと分かっていた。
コロナ渦で
3年間
出かけることができなかった
海外旅行だった。
その間 はやとは
中学2年になり
中学3年になり
高校1年を迎え
そして
高校2年生になった。
3年間のブランクがあったが
小さい頃の体験が
しっかりと身についていた。
小さいころからの体験が・・・
積み重なった。
高校2年生になった秋に
一人で外国へ出かけてくる
と 言い出したはやと
年齢の壁があり
17歳のはやとは
一人で海外旅行は不可能だとわかり
母親のみいと
二人で出かけることになった。
団体行動が苦手なみいは
はやとの望みをかなえるのには
ぴったりの相手だった。
出国審査の時だけしか
みいがはやとと一緒にいないことは
私にはわかりきっていた。
はやとは自由に一人で
行動することができるのである。
二人は
私や主人の保護から旅立った。
子離れ 孫離れできないのは
私だった。
私は
飛行機が出発するまで
空港の近くを
離れることができなかった。
ず~~~と前から
行ってみたかった
コストコホールセール久山倉庫店を
カーナビにセットした。
飛行機が出発する頃まで
空港近くのコストコで
時間を費やすことにした。
何かあったら
空港へと駆けつけてあげられる場所で
待機していた。
ばぁばバカだと言われ
主人に呆れられながら。
コストコに入店する前の
長い 長い
なが~~~い行列に
並んでいるときだった。
みいから
電話が入った。
「 韓国ソウルが雪のため
飛行機が到着していないので
出発が1時間以上遅れるよ。
大丈夫かなぁ 」
と。
ソウルでシンガポールへの
乗り継ぎ時間は3時間しかない。
私は 検索してみた。
「大韓航空
ソウルからシンガポール
運行状況 」
と。
ソウル出発
シンガポール行きの飛行機も
遅れることが発表されていた。
そのため
予定の飛行機に
取り残される心配はないと確信できた。
「心配しなくても
大丈夫よ。」 と
案の定 はやととは
別行動をとっているみいと話した。
「 今から飛行機に乗り込むよ」と
14時54分
福岡空港のはやとからラインが入った。
予定時間を2時間近く遅れて
福岡を出発した。
ソウルからシンガポール行きの飛行機も
1時間30分ほど出発が遅れていた。
19時20分
「 俺は今 飛行機に乗り込んだよ 」と
はやとからのラインが入った。
「みいは まだ乗り込んできていない」と
ラインが続いた。
みいのいつもの行動パターンなので
「 心配しなくていいよ
いつものことよ。」
と返しておいた。
はやとは
福岡空港での手続きの際
ちゃっかりと座席を
快適な席に変更していた。
前方エリアの非常口の横にある
足元の広いシートの席である。
この座席には
様々な条件があるが
とりあえずすべての条件を
満たしていたそうである。
5分ほどして
ラインがとどいた。
「 みいが来たよ。」
「 ほっとしたね。 」
「 うん 」
12月30日 19時30分
二人の乗った大韓空港は
大幅に遅れて
19時40分にソウルを飛び立った。
12月31日 01時36分
シンガポール 到着予定
2023年12月23日
はやとの挑戦
我が名よばれん
初しぐれ
=芭蕉=
中秋の名月をめで
秋はゆっくりとしだいに深まっていった。
「おれ
一人で外国に行ってこようかな・・」
真剣にはやとのつぶやきに耳を貸したのは
初時雨が降るころだった。
行き先をシンガポールに決定した。
高校生のはやとの夢をかなえるのは
冬休みしかない。
あまり時間がないため
急きょ
旅行の準備を始めた。
希望に胸膨らませ
計画を実行しようとした矢先
大きな問題が
立ちはだかった。
17歳という年齢のはやとは
外国への一人旅が不可能だと
わかったのである。
18歳未満では
一人で飛行機に乗ることができない。
各国で
親権控訴中に発生するこどもの略奪増加や
国際的な子供の連れ去りなどに
対処するために設けられている条件である。
ただ・・・
これには
必要な書類をそろえれば
クリアできる。
が・・・
ほとんどの国のホテルが
18歳未満の一人での宿泊を
受け入れてくれないことがわかった。
チェックインの際
必ずパスポートを提示しなければ
ならなかったから
なんの手段もなかった。
じぃじ ばぁばが同行すれば済むことだが
それでは
はやとの一人旅への夢は
崩れてしまうのである。
そこで
一つだけ方法があった。
適任者がいることを思いついた。
団体行動が嫌いで
入国審査の時以外は
空港内でも決して同じ行動をとらないし
外国での観光には別行動ばかりする
はやとの母親 みい がいた。
ホテルで目が覚めたら
同室のみいは
いつも部屋に姿がなかった。
ホテルの周りを散歩に出かけ
朝食は決して
一緒にレストランにはいかない。
もちろん
夕食もひとり別行動をとる。
私たちがホテルを出発して
観光に出かけるときも
一人ホテルに残って
周りの街をぶらぶらと散策したり
スーパーで買い物を楽しんだり
近くの公園を散歩したり
ホテル内のスパやジムを活用したりして
過ごすのが好きだった。
お互いを干渉しないで
一人旅を行うことができる
素晴らしい適任者が
こんなに近くにいたのだ。
私は
はやととともに
やんわりと
機嫌を損なわないように
みいを説得した。
「・・・こういう事情で
はやとは一人で外国旅行ができないので
みいが付き合ってあげてね。」
「旅費はばぁばが出すからね。
年金 貯まったからね。 」
本来あまり旅行にはいきたがらない
頑固なみいを
一回で説得できるはずないと思っていたら
「 あら。 ありがとう。 」と
快い返事が返ってきた。
私は
はやとと顔を見合わせた。
こんなに簡単にみいを
誘えると思っていなかっただけに
心底ほっとした。
とんとん拍子に
旅行の準備が整った。
12月30日出発
福岡~韓国ソウル経由~シンガポール
1月3日
シンガポール~韓国ソウル経由~福岡
ホテルは
みいが一人で過ごしやすいように
近くに商店街や
公園があり
フィットネスセンターがある
「 ヨークホテル 」を予約した。
出発まで
1週間となった。
はやとは
スマホで
クルーズ船でのカウントダウンの
チケットを手配したり
日々楽しそうに 計画を練っている。
「 ばぁば
計画立てるのって難しいね。」という
言葉を添えながら。
2023年12月20日
そそられる旅情 シンガポール
秋の深まりとともに
はやとは
気持ちを言葉にあらわしだした。
「おれ・・・
ぶらっと韓国に行ってこようかな」
「そうね
韓国なら近いので
気軽に行ってこれるね。」
「おれ・・・
一人で外国に行ってこようかな」
はやとの独り言に付き合う度に
一回ごとに
本気が感じられるようになった。
私は
真剣にはやとの独り言に
きちんと耳を傾けるようになった。
「一人で行くのなら
・・・・
そうねぇ
治安もいいシンガポールにすれば!
韓国は
まったく言葉が通じなかったよね。
文字も全くわからないので
すべてがチンプン カンプンなはずよ。
その点
シンガポールの公用語は英語なので
広範囲で
英語が通じるんじゃないかなぁ」
というのが
ばぁばの意見だった。
「 うん
冬休みに一人旅で
シンガポールに行ってくる。」
「 そうね 行ってくれば。」
物事をあまり深く考えないばぁばと
怖いもの知らずの孫との
驚くべきやり取りだった。
一刻 一刻 秋が深まっていき
はやとの胸は
旅へのあこがれが溢れた。
しかし・・
この時はまだ
17歳のはやとの前に
海外旅行に年齢の壁があることを
私は知らなかったのである。